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『存在と時間』 (NHK100分de名著)+「ハイデガーの後半の人生」=より完成度が高まる

 私のような哲学の素人にとって、引用の多い原著を読んで理解することは時間がかかり、骨の折れることだ。そんなとき、100 de 名著の解説テキストはたいへん助かる読み物になる。しかも薄いので、ちょっとした端切れ時間で読めてしまうのがありがたい。

 人と違う生き方をしていた友人が入院したことを今週知り、急遽『存在と時間』の100分 de 名著を読むことにした。存在の意味を問う存在者である人間を現存在(ダーザイン)と呼ぶハイデガーは、以下のような人間をめぐる分析を行った。

 世間やその場の空気に迎合し、「みんなもこうしている」「こうしたほうがいい」という圧力となる匿名的な他者を「世人」と呼んだ。特に日本社会は同調圧力が強いので、「世人」の概念は分かりやすい。人は同調圧力によって、その行為の責任が、「私」から「みんな」(世人)に移ってしまい無責任な状態になる。現存在(人間)が、周りにコロコロ合わせて興味関心を変化させる最大の理由は、空気を読んで他者(世人)に同調することを止め、自分ひとりの力で人生を切り拓いていこうとすると「不安」に襲われてしまうからだ。

 しかし現存在が、自分が自分の死と向き合うとき、世人に影響されることなく、自分を「唯一無二」の存在として理解することができるようになる。つまり、死の可能性に向き合うことは、自分が本当にすべきことに向き合い生きることに意味が変容する。このことをハイデガーは「先駆」と呼んだ。

 友人の入院により、以前より私は、「先駆」を考えるようになった。ハイデガーの思考前提のように、すべての他人を世人として一括にしなかった友人は、仲間を大切にした。しかし、人間が仲間から切り離され、独りぼっちにならざるを得ないとき、はたして「先駆」は機能するのだろうか。機能してくれれば、それは理想ではあるが、例え機能しなかったとしても、仲間であることに変わりはない。

 ハイデガーがすべての他人を世人として一括にすることで、全体主義に飲み込まれてしまった、とアンナ・ハーレントは分析するが、未完の大著『存在と時間』は、ハイデガーの後半の人生を含めて解釈することで、より完成度が高まるものなのだろう。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。