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『スーフィズム イスラムの心』スーフィズムは、霊的修練として自我が3つの段階にある(世界の歴史)

 本書によって、スーフィズムとイスラム教の関係が整理できる。まず第一に、ムスリムがいてイスラム教がある。ムスリムであることは必ずしも信仰者だとは言えない。それはただイスラム教を信じているに過ぎない。親がイスラム教であれば、出生によってイスラム教となりうる。イスラム教は各人に、個人として自覚的にその教えを守り、それを実践することを求める。

 ムスリムには、シャハーダ(信仰告白)、サラート(礼拝)、ラマダーン(断食)、ザカート(喜捨)、ハッジ(メッカ巡礼)という五柱の義務がある。これらは、個人の進歩のレベルで表面的にも深くも実践される。そのレベルは以下の3つだ。

1)服従(イスラム)のレベル
 人間のために神が欲し望んだことにおいて、神に従うことである。もし神が礼拝を命じたらそれをする。もし神が喜捨を求めたら何も言わずにそれを与える。

2)信仰(イーマーン)のレベル
 人が言葉で認めることを心でもそうすることを表す。このレベルで生きている人は、五柱の義務を履行するだけでは満足せず、彼の内的生活がそれの反映となる。

3)卓越性(イフサーン)のレベル
 この段階は、人が神を祈るのはそれが義務だからではなく、神を見るからである。つまり、神を知るだけでなく、見なければならない。預言者はそれを「神を見ているかのように祈りなさい」と表現した。確信と内的ヴィジョンが一致することを指す。

 ムスリムであればすべての人が 1)の段階にある。この段階を完了した人の内、あるものはそこに留まり、他の者は 2)の段階に行こうと努力する。最後の段階まで達し、覚者となる人は稀である。
 つまり、スンニ派、シーア派というムスリムは、すべて 1)の段階から自発的に 2) 3)の段階に進む人がいるということだ。

 スーフィズムには、霊的修練として、自我が3つの段階にあるという。

1)ナフス・アンマーラ
 この自我はいかがわしいものを好み、悪を楽しむ。
2)ナフス・ラウワーマ
 悪をなしてはそれを悔やみ、その悔悟は行為の後にくる。
3)ナフス・ムトマインナ
 和らいで平成な自我を構成する段階。

 そして自我がなくなれば、私たちが存在しなくなる。霊性において、自我のない境地が到達すべき目標となる。神は常に人間の心の中に現在している。いるのは彼だけであり、彼以外何もいない。彼がすべてである。この段階を井筒俊彦氏は、いまはじめて現れた第二の「われ」の中に自我は消滅し、「神的われ」、つまり、神がそこに自らを現す、と表現している。また、自我を失うプロセスの実践には、導師を必要とし、それがないと危険だという。

 スーフィーの内面(霊性)強調の特徴は、律法厳守という神への帰依における動機の純化を説いただけでなく、その際、自己と神、という二元的対立があってはならない。自我を消滅させ、無にすることにより、「神的われ」と一人称となる。

 スーフィズムの境地は、道元が説いた仏道とそっくりだというからも、イスラームと日本人は通じる部分があると、改めて認識することができた。

「仏道をならうというは自己をならうなり。自己をならうとは自己をわするるなり」

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。