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『戦争と外交の世界史』ロシアは東で破れた次に、西で南下を実現(世界の歴史)

 「戦争と外交」とあるが、戦争も外交のひとつなので、そういう意味での本書のタイトルは「戦争と条約の世界史」の方が適切だ。とにかく驚かされるのはその参考文献の多さだ。当然だが、これだけの本を読まないことには世界の歴史を俯瞰できないということでもある。条約という出来事だけを抽出しただけで、400ページ弱の本書になる。それでも多義に渡るので、ここではウクライナに関係することにフォーカスしてみる。

 まずは、ロシアとウクライナがこんな条約で収まればよいのに、と思われる「澶淵の盟」について。現在の中国は漢民族が中心になり建国された。中国の農耕民は、統一政権ができて騎馬民族を撃退して欲しい。強力な正規軍と万里の長城で防いで欲しい。そのためのコストは負担するという意識がある。そして、モンゴル高原の遊牧民との対立と同化を繰り返している。そんな中、互角の軍事力を持つ遊牧民のキタイと経済力の優る宋が以下の条件で結んだ条約が「澶淵の盟」だ。

1)宋が兄となりキタイが弟となる
2)両国の国境は現状を維持する
3)宋はキタイに毎年絹二十万疋と銀十万両送る

 この盟は忠実に守られてキタイが滅びるまで百二十年続いた。しかしこの盟は、両軍が対峙し、激突したら両軍被害が大きいと和平交渉に入った結果もたらされたものだ。したがって、ロシアとウクライナに投影するならば、2021年の段階であれば可能だった歴史の知恵となる。

 次にロシア西側の国境線をアムール川に定めたアルバジン砦をめぐるロシアと清の戦い。3度の戦闘で清がロシアの南下侵攻を止めネルチンスク条約(1989年)を締結。これはピュードルⅠ世時代のことで、その父でロマノフ王朝二代のアレクセイがポーランド領のウクライナに侵攻し、子の後のピュードルⅠ世時代に黒海の内海のアゾフ海を占領(1969年)し、東で無理だった南下を西の黒海で果たすことに。

 この本により分かったのだが、ロシアは東で南下が難しいと西(黒海やバルト海)で南下を実行するというパターンを繰り返している。ピュードルⅠ世はサンクトペテルブルクを建設し、バルト海の出口を作ることに成功。スウェーデンの死亡診断書と呼ばれるニスタット条約(1721年)が結ばれバルト三国はロシアの手に渡る。日露戦争(1904年)でもロシアは東で南下政策をとり日本と激突したが敗退し、その後、西で第一次世界大戦(1914年)を行う。つまり、西側でロシアの領土拡大が続く限り、少なくとも東側は少し安心ということになる。ロシアと言えども東も西も同時に領土拡大を行うことは難しいだろうから…

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。