見出し画像

『逆さ人生』(自己紹介)

※写真はアンマンの街角で写したもの

 私は愛知県の田舎にある大学に入学したが、授業にはほとんど出席せず、「システム工学研究会」というサークルの部屋にだけはたまに出入りしていた。4年ほど籍はあったが、1年生のままでドロップアウトし、名古屋でIT企業を起業した。23歳のときだ。

 当時(1980年代初頭)は、マイコン(現在のパソコン)が出現し、西和彦、孫正義など、IT業界には若き起業家たちが続々と誕生していた時代だ。まじめに学校に通い、就職する道より、新しく出現したパソコンの波に乗り、ビジネスを行った方が面白いと考えたのだ。

 起業したIT企業では、アメリカで開発されたデータベースソフト(当時世界3位のソフトウェアベンダーであったアシュトンテイト社のdBASEという製品)を使い企業の業務をIT化していた。自社開発商品なども取り揃え、設立し3年ほどで経常利益も税金を払えるぐらいになり、その後は安定していた。
 ところが、8年ほど経った頃、コアコンピタンスとして経営を支えていたそのデータベースソフト企業が、別のIT企業に買収をされてしまったのだ。(参照『アホでマヌケな米国(アメリカ)ハイテク企業』レビュー)その翌月から、関連した開発ツールやアプリケーションの売上が1/10に激減した。企業は先行きが不透明な会社の製品を使いたくないからだ。

 1年も経たないうちに、買収は失敗と市場から判断され、そのデータベースソフトの市場は完全にシュリンクしてしまった。買収した会社はボーランドという会社で、株主として会長をつとめていたのが、世界的にも有名なベンチャーキャピタリストの原丈人氏(安倍晋三内閣時代の内閣府参与)だ。

 これにより、10年近くかけて築き上げたコアコンピタンスを失ってしまった。そのため、1990年代からはイスラエルに飛び、彼らのユニークなITテクノロジーを日本に持ち込んで展開するビジネスに商売替えをした。

 英語はほとんどできなかったが、数社のイスラエル企業と独占契約をし、商品を日本語化し日本でリリースした。当時のイスラエルは第一次インティファーダー(パレスチナ住民の蜂起)の真っ最中で、多いときは1日で3回もの自爆テロ(主に路線バス)があった。そんな時期なので、イスラエルとビジネスをしようする人は、欧米人ですら少なかった。ついでに、製品の輸入だけでなく、イスラエルの契約先や提携先に日本のベンチャーキャピタルからの投資事業も推進した。(後に2社ほどNASDAQにEXITした)
 しかし、1990年代のバブル崩壊後の経営は苦しく、イスラエルのビジネスを安定的にキャッシュフローポジティブ軌道に乗せることが難しかった。山あり谷ありの資金繰りを繰り返していた。また、会社のリードインベスターが山一證券、メインバンクはあさひ銀行(現在のりそな銀行)だったが、バブル崩壊からのあおりで、山一證券は1997年、あさひ銀行は2002年になくなってしまった。

 結局、23歳のときに起業したIT企業は、数億円の負債を残し、1990年代後半に幕を閉じることになった。すべて経営者である私の責任だ。

 2000年代初頭、原丈人氏が、東京麻布十番の国際文化会館で講演を行うという案内が来たので参加した。そこではじめて会社は株主のものではないという公益資本主義の理念を知った。しかし、前述の過去をもつ私は、耳を疑ってしまったのだ。彼がアメリカのデータベース企業(アシュトンテイト社)を買収した後に、うまく事業継続してくれていたら、パートナー企業(23歳のときに創業したIT企業)がこんなに苦労をしなくても済んだのに、と情けないことに思ってしまったからだ。

 講演が終わった後、私のことを覚えているかどうかを確認するため、演壇にあいさつに行ったら、幸いにして顔と名前は覚えていてくれていた。しかし、あの買収の失敗から生み出した発想が「公益資本主義」なのか、と質問することを忘れてしまったことが悔やまれる。
(原丈人氏の「公益資本主義」は、岸田文雄政権の政策である「新しい資本主義」に影響したといわれている)

 まさに、冗談のようなホントの話だ。

 会社が倒産した。
 そして一人になった。
 どん底というやつだ。
 会社の事務所はもちろん、自宅も引っ越した。

 どん底のなか一人でやれる仕事はコンサルぐらいしかなかった。4社ほどのIT企業のコンサルを行っていた。そのうち、コンサル企業の1社(東京乃木坂の外資系企業)から、日本のビジネスを本格的に手伝って欲しいと依頼された。日本法人のカントリーマネージャー(日本法人の社長)が経営を放棄(転社)したからだ。

 そこではじめて、外資系企業のカントリーマネージャーというものになった。しかし、この会社は資金がなくなり、1年後に買収されることになった。さらに今度は、それを買収したシカゴの会社がChapter11(民事再生)となってしまったのだ。

 ここまでくると、いい加減にしてくれといいたくなる。

 Chapter11における裁判所の判断により、デジタルマーケティングビジネスの一部はニューヨークの会社に引き継がれることに決定した。年に1度のペースで名刺が変わっているので、印刷代がもったいないと思っていたが、買収やChapter11はアメリカのダイナミズムを生み出していることを実感した2年間だった。

 その後、ニューヨークのデジタルマーケティング企業の日本法人のカントリーマネージャーを10年近く続けた。

 なぜ10年かというと、デジタルマーケティング会社のビジネスは軌道に乗り、競合他社との差別化もでき、顧客創造の目処もたったにも関わらず、今度はその会社が、世界ナンバーワンのデータベース企業であるオラクル社に買収されることになってしまったからだ。

 そして、日本法人のカントリーマネージャーであった私は、1年間のNon−Competition Agreement(競業避止義務契約)を締結され、お払い箱になった。

 振り返ると、20代でIT企業を10年、30代でイスラエルの仕事を10年、40代でデジタルマーケティングの仕事を10年と、仕事が長続きしない情けない人生だと笑うしかない。10年置きの商売替え(転社でなく)は辛いこともある。なぜなら、移行期に収入が不安定になるからだ。

 オラクル社に買収された後の1年は、自分の人生を見つめ直そうとサバティカル(ユダヤ人の習慣である長期休暇)を過ごした。その後、単発のコンサルなどを繰り返していたが、受注仕事には波があるので、収入が安定しない。そこで、4次面接まで受け、58歳で、はじめてサラリーマンとなった。またもや商売替えをしたわけだ。

 サラリーマンとしての自分を認識したのは、入社書類として、「雇用保険被保険者証のコピー」を求められたときだ。実はそれまで、雇用保険被保険者証というものを見たことがなかった。調べてみたら、役員は雇用保険がないので、雇用保険被保険者証は存在しないという。雇用保険被保険者証というものがあることを58歳になるまで知らなかったのだ。

 これも、冗談のようなホントの話だ。

 私の人生は、学校を卒業し企業に就職し出世していく、というスタンダードな人生マップが「逆さ」になっている。どこかのテレビ番組のような、逆転し成功した人生(逆転人生)ではなく、単に順番が逆になった「逆さ人生」だ。『逆さ日本史』という本の名前は聞いたことはあるが、「逆さ人生」という言葉は、はじめて聞いた人が多いのではないだろうか。順風満帆のサラリーマン人生からすると完全に落ちこぼれだ。しかし、「逆さ」になっているので、異質ともいえる。

 50代でのサラリーマン人生では、5年間グローバルリスクマネジメントを学んだが、60代からの仕事として、26歳のときに学びはじめた糸川英夫博士の「Creative Organized Technology(創造性組織工学)」に正面から向き合うビジネスをはじめるため、Creative Organized Technology LLCを設立し、現在に至る。 

https://www.linkedin.com/in/inootanaka

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。