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『アホでマヌケな米国(アメリカ)ハイテク企業』dBASEの失敗研究(業界の歴史)

 1980年代のパソコンの出現による多産多死のIT業界、1990年代のインターネットの出現による多産多死のIT業界、現在のGAFAMに至るプロセスから、マーケティングの失敗を学ぶことができる貴重な1冊だ。

 私自身が1983年に名古屋でIT企業を創業したため、まさにここに書かれた企業に翻弄された経験がある。ご本人が「運が良かった」のが成功の原因と断言する成毛眞氏は、私が関わった企業を次のように解説している。

  • データベースのアシュトン・テイトのCEOエド・エスパーは「ネットワーク外部性効果」をまったく理解していなかった。サードパーティーを協力者ではなく競合者として位置付けたのだ。エスパーは、自らが地球上のすべてのdBASE開発者の最大の敵になる一方で、マスコミからも放射線物質のように見られていることに気付いていなかった。

  • ボーランドはデータベースで有名なアシュトン・テイト社を買収したのだが、「他人への気配りと思いやりのなさが微妙にブレンドされたフランス人ならではの気質を持つカーン」に対して「征服された側の民は、野蛮人的なやり方で対抗した。」スゴすぎる。アメリカ人の前ではフランス人を誉めるのはやめよう。

 私はこのdBASE(NASAのジェット推進研究所で生まれた)をベースにしたビジネスを1983年にはじめたのだ。ボーランドの買収されたのが1991年なので、10年弱これで会社を経営していた。成毛眞氏が日本支社長だったマイクロソフトがMS−DOSを生み出す前は、BASIC言語が主流ビジネスで、6位が7位の売上ランキングの企業だった。 
 BASIC言語はこの記事の写真にあるようにGOTO文があり、プログラム行番号をあっちこっちに飛ぶメンテナンス性の悪いスパゲッティープログラムを量産した。

 そのため、市場はそうでないものを求め、短時間で開発しメンテナンスが容易なdBASEに飛びついたのだ。私自身もそのスマートな開発に感動したものだった。しかし、経営者が変わる中、悲惨な運命をたどっていく。本書にもあるように、米国でハイテク業界が起こった1975年以降の歴史の中で、ソフトウェア業界で最大かつ最も意外な崩壊劇が、当時業界No3のアシュトン・テイト社だったのだ。(1980年代のNo1はMS-DOSにビジネスを移行したマイクロソフト、No2は表計算1−2−3のロータス)

 アシュトン・テイト社がボーランド社に買収された後は、米国本社の株主・会長で、追放したフィリップ・カーンCEOの後任を選んだ原丈人氏と、Inprise(ボーランド社が法人向けに変更した社名)のビジネスについて、笹塚で何度も打ち合わせを行っていた。私がdBASEの分野では日本でトップクラスの影響力をもっていたからだ。

 この本に出てくる会社のほとんどの失敗は、技術おたくとスーツ組の摩擦から生まれるミスジャッジから生まれている。技術おたくがコードの美しさを求めることを優先したり、スーツ組がエコシステムを理解していなかったり、既存ユーザーやサードパーティを無視することで崩壊がはじまる。ソフトウェアが買い替え容易なものではなく、バージョンにより知的資産が累積するものだという性格が原因しているとも言える。

 当時から存在している企業の中で、現在のGAFAMと呼ばれるビックテック企業の一角に存在しているのは、アップルとマイクロソフトしかない。1980年代からの20年に渡る多産多死があったからこそ生まれたのが現在のIT業界なのだ。このことからも多産多死を恐れていては、大きな産業が生まれることはないことがわかる。本書はそのことを明確に教えてくれる。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。