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口笛/ショートショート

母と夜道歩き口笛を吹いたら「夜、口笛を吹かないで」と咎められた。「なんで」と聞くと、「蛇が出るから」と母は言う。あのとき、なぜ、母がそんな注意をしたのだろうか、思い出すことがある。その日、母は死んだ。僕の目の前で、電車に飛び込んだ。僕を1人置いて。

 

「お父さん、どこ行くの?」

 歴史は繰り返す…のか。時が経ち、僕は娘の遙花と夜道を歩いている。

「新しい家。お父さんの知り合いが海外転勤になって、その間貸してくれるんだよ」

「どこにあるの?」

「この先。あと10分くらいで着く」

「お母さんは?」

「後から来る」

 同じ話を1時間前から繰り返しているから、遙花は気づいているだろうけど、矛盾を指摘することはなかった。妻は、とっくに愛想尽かして他の男と逃げた。仕方ない。働かず、借金まみれ、おまけに手を上げたこともあった。僕が逆の立場でも逃げただろう。そして、今、家賃を滞納しまくった家を追われ、行き先を失った僕らは夜道を彷徨っているというわけだ。死ぬことは決めていた。問題は、遙花を連れて行くかどうかだ。母に連れて行ってもらえなかった僕は、親戚中をたらい回しにされ、地獄のような虐待を受けた上に17の時に捨てられた。以来、チンピラまがいの生活をしていたが、結局、やくざにもなれず、看護師をしていた妻に拾われ、何とか生き延びてきた。その妻にも切られた。こんなクソみたいな人生で、たった一つ希望の光が遙花だった。妻に似て利発で、素直で汚れを知らない。なぜ、妻はこの子を置いていったのか。この先遙花が、自分と同じような苦渋の人生を送るくらいならば、いっそ一緒に連れて行った方がよいのではないか。

 ふいに、口笛の音色が聞こえた。音の方向を見ると、遙花だった。どこかもの悲しいメロディだった。

「それ、何の曲?」

 遙花は、聞いたこともないアーティストの名前を告げると、誰に共なく語り始めた。

「私ね。お母さんが出て行くとき、一緒に行こうって言われたんだよ。だけどね、断ったの。お父さん1人に出来ないじゃない」

 そして、再び口笛を吹き始める。夜道の先にうっすらと線路が見えてきた。迫り来る電車の走行音が遠くから響いてくる。口笛の音色と電車の走行音が徐々に重なってくる。すると、枕木の上にぼんやり蛇が浮かび、その蛇がモーフィングするように死んだ母の姿に変わった。幻の母が言う。

「嘘はやめなさい。私はあなたを置いていったりしないわ」

 僕は、振り払うように遙花に叫ぶ。

「口笛をやめろ!」

 遙花はいっこうに口笛をやめない。

「私はあなたの手を引いた。あなたが振り払ったのよ」

 母は僕をにらんでいる。「やめろ、やめろ…」僕は、耳を塞ぎうずくまる。耳を塞いでいるのに、口笛の音色と走行音は迫ってくる。

「遙花! 一緒に行こう。このまま生きていても、未来なんかない」

 遙花は悲しそうに、首を振る。

「生きていて何になる? お母さんがお前を連れて行こうとしたなんて嘘だろう。俺たちは捨てられたんだ」

口笛の音色が止む。走行音だけが差し迫っていく。

「さあ、おいで」

 僕は遙花を手招きすると、枕木上の母も僕を誘う。僕が電車に向かって駆け出すと、がっしりと二つの腕がつかんだ。遙花の腕だ。言葉はない。ただ、しがみつく。一緒にこのまま飛び込めば、2人で死ねる。が、しかし。動かなかった。体も。心も。電車は恐ろしいスピードで通り過ぎる、幻影の母は、風速に煽られるように消えていく。

 電車が通り過ぎ、へたり込んだ僕と遙花。僕は口笛を吹く。

もう、母の姿はない。

「私、お母さんに捨てられてないよ。本当だよ」

 遙花が言う。僕は口笛を吹き続ける。遙花も口笛を重ねる。それぞれ、身勝手に吹くので耳障りな不協和音になる。もう、蛇も母親も出てこない。遙花はしがみついた腕を離そうとしない。どうして、こんな愛しい娘にあんな悲しい嘘をつかせなければならなかったのか。真実が正しい必要はない。僕らが生きていくために必要なのは希望だ。

 いつしか口笛は、一つのメロディを奏でていた。

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