梟の見た夢 #3「梟と兎」
あれは、中学三年生のときだった。
「表現したいものを、自由に作ってくれ」
授業の初め、美術の先生が言った。クラスメイトが各々の作業に着手するなか、目の前に置かれた木のブロックに、奏多は深い溜息をついた。
彫刻は、大の苦手なのだ。
ただでさえ不器用なのに、彫刻刀という慣れない道具を使って作品を創れと言われて、僕にできるはずがない。以前なんか、悩みながら彫っているうちに、いつの間にか貰った角材が、全て木屑と化してしまった。
おまけに「自由に」だなんて……その放任な言葉こそが、却って僕を不自由にするんだ。
誰かに助けを求めようとしても、碌に友達も作ってこなかった奏多には、気軽に声をかけられる人なんていなかった。これじゃいつまで経ってもアイデアは浮かばず、作品は完成しない。
なんで中学最後の美術制作が、よりによって木彫りなんだ。デッサンとかなら、まだ何とか耐えられるのに……。彼が頭を抱えていると、
「何を作るか、決まらないのかい?」
先生は奏多の顔を覗き込んで言った。
「え?あ、はい……」
咄嗟に目を逸らす。この先生は全体的に人との距離感がバグっている。ユーモアもあって多くの生徒からは好かれていたが、奏多は正直少し苦手としていた。
先生は顎に手を置き、うーむとしばし考え込む。
「そうだねぇ……おそらく君は、自分のために何かをするのは苦手なんだろう」
言いながら、先生は片眉をクイッと上げながら、揶揄うように横目で奏多を見る。それから、決め台詞のようにわざとらしく作った声色で言った。
「————君、趣味とかないタイプかい?」
「うっ…………」
「ふふっ、その反応は図星だね?」
デリカシーのない人だ。自分でもちょっと気にしてたのに。
心の中で落ち込む奏多をよそに、先生は続ける。
「まあそんなこと、今は何ら関係ないさ。要するに、私が言いたいことは――」
言いながら、いきなり奏多の目の前で、パチンッ、と指を鳴らす。
「自分のために作れないなら、誰かを想って作ればいいってことさ」
自分の言葉に酔い痴れるように、うんうんと頷いている。本当に、なんなんだこの人は。ただのナルシストじゃないか。
だが、この先生が口にすることは、いつも妙に心に引っかかるのだった。
「えっと……誰かを、想って……?」
「ああ、そうさ。今回の制作は中学校三年間の締めくくりだ。この三年間でお世話になった人がたくさんいるだろう? 家族や先生、そして友人……そういう人のことを想って、その人に贈り物をするつもりで考えてごらん」
そうすれば、作りたいという気持ちも湧くんじゃないかな。
先生は、余裕のある大人の笑みを浮かべた。
が、それをぶち壊すように、すぐに調子に乗っておどけてみせる。
「あ、私を想って作ってくれても、一向に構わないんだよ?」
「……お断りします」
「ははっ、それは残念だなぁ」
高らかに笑いながら、先生は再び教室内を回っていった。
なんというか、嵐のような人だ。これまでたくさんのものを見てきて、自身だけの確かな世界を持っているのだろう。自分とはまったく違う世界の人だ。
苦手ではあるが、尊敬はしている。風格漂う芸術家の背中をぼんやりと見つめた。
誰かを想って、か。
「…………うん」
彫刻刀の代わりにペンを取ると、プリントの枠内にせっせとイメージ図を描き始めた。
モチーフは……いや、これじゃない。
ここはもう少し、こんな感じ……。
決して絵心があるというわけではなかったが、相手のことを思い浮かべながら、何度も描いては消してを繰り返した。
持ち帰って、家でも続きを書いた。趣味もない彼には時間だけはあったが、それでも寝る暇を惜しんでまで描き続けた。
そうして、丸一週間かかってようやく、一枚の設計図が完成した。
不器用な指先で書いた絵は端々が揺れていて、小学生が描いたような、何とも言えぬ覚束なさが滲んでいた。
「見せてくれるかい?」
授業の始めに、先生がプリントの提出を求める。奏多は震える手で、恐る恐る差し出す。
これだけ本気で何かを書き続けたのは初めてだった。これで駄目だと言われたら……。つい嫌な想像をしてしまう。
だが、そんな彼の不安を優しく拭うように、先生は微笑んだ。
「君が誰を想って描いたのかは分からないが、その相手がどんな人なのかは、はっきりと伝わってくる。…………よく頑張ったなぁ、本当に」
何度も描き直したんだろう。
君が相手を想って費やしたその時間こそが、作品に君だけの意味と深みを持たせるんだ。
鉛筆の消し跡で汚れた紙を、先生は宝物のように優しく持っていた。
努力や頑張った時間よりも、自分の想いを肯定してもらえたことが、奏多にとってこの上なく嬉しいことだった。不覚にも危うく泣きそうになる。
「ありがとう、ございます……」
「私は何もしていないさ。……さあ、あとは形にするだけだ。心配することはない、精巧で立派なものを作る必要はないんだから」
そう言って、先生はペンを取り出すと、プリントに特大の花丸を書き加えて返した。
やけにアーティスティックな花丸だった。
***
学年末試験も終わり、中学校の卒業もあと数日後に迫っていた。校門前の桜の樹にも、少しずつ蕾が膨らみ始めていた、ある日のこと。
奏多は、持てる限りのすべての勇気を振り絞って、理穂を放課後の教室に呼び出した。
「あーっ、やっと来たー!もう……自分から呼び出しておいて遅いよー!」
奏多が教室に入ると、窓際の席に腰掛けていた理穂が、口を尖らせる。
金色の夕陽が差し込んで、彼女の綺麗な髪色をいっそう鮮やかに映し出す。セーラー服の白がオレンジに染まって眩しかった。
「ご、ごめん……」
「ふふっ、気にしてないよ」
きっと何か用事があったんでしょ?
理穂はいたずらっぽく笑う。
「……それで、急に呼び出してどうしたの?」
椅子から立ち上がると、奏多の前まで歩み寄りながら、小首を傾げた。
いつもは、奏多の方から話しかけることすら稀だった。それが急に、用があるから放課後に会いたい、だなんて言われたのだから、理穂が不思議がるのも無理はない。
この状況のおかしさを今になって感じてしまい、急に緊張してきた。
握った掌に、汗が滲む。
「そ、それは……」
まただ、手が震える。
十八年間という時間を共にしたんだ。何も緊張することはない。せっかく頑張ったのだから、ただ胸を張ればいいのだ。
「これっ……!めっ、迷惑じゃ、なかったら…………」
思い切って、握り締めていたそれを理穂に突き出した。
だが、その勢いはすぐに失速して、語尾が尻すぼみになる。自信なさげに目を伏せた。
里穂は黙って差し出されたそれを受け取って、細い指先で持ったままじっと見つめた。
「これは…………フクロウ?」
「うん、美術でつくったやつ……」
結局、あれだけ頑張ってはいたが、彫刻刀の使い方が下手すぎて……なんというか、幼い子どもの木工作品のような、微妙な仕上がりになってしまった。
でもとりあえず、フクロウだと伝わってよかった。こっそり胸を撫で下ろす。
しかし、急にこんなのを渡されて、いくら幼馴染といえど気持ち悪いと思われないだろうか。そんな不安が湧き上がっていると、急に理穂が大きな声を上げた。
「えっ、これくれるの!?私に!?」
はっとして顔を上げると、きらきらと目を輝かせた理穂が、身を乗り出すようにこちらを見つめていた。ついぎょっとして、一歩後ずさりをする。
「え、えっと……」
「だってだって、これ奏多が作ったんでしょ!?めっちゃびっくりしたよ!」
奏多の説明を聞こうともせず、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。普段しっかりものの理穂がときどき見せる、子どもっぽいはしゃぎ声。
「嬉しいなぁ……まさかこんなことがあるなんて……」
小さなフクロウを高く掲げて、理穂はしんみりと呟いた。
そんなに喜んでもらえるとは思わなかったから、奏多自身も正直驚いていた。
もちろん、その木彫りのフクロウは、ずっと理穂のことを思い浮かべながら作ったものだ。理性的で、賢くて、人のことをよく見ていて――そんな理穂の姿を、フクロウに重ねたのだった。
だがどちらかというと、それは理穂への憧れや尊敬の表れだったのかもしれない。今はこんな風に無邪気に笑っているが、彼女が人一倍頑張っていることを奏多は知っていた。
理穂が、友人の趣味や関心ごとをこっそり勉強していることも。テスト前でなくても、毎日、自習室に残って勉強してから帰っていることも。部活動でうまくいかなかったとき、悔しくて泣きそうになるのを我慢しながら、いつも隠れて自主練を繰り返していることも。
全部奏多は知っていた。気がついていた。
彼女の聡明さも、器用さも、理性的なところも、幼い頃からずっと努力してきたことの証。明るさや社交性の向こうで、彼女はたくさん考えて、たくさん悩んでいる。
そのことを、奏多は誰よりも――理穂自身よりも、よく分かっていたのだった。
だから、理穂をフクロウに見立てたその置物は、彼が精一杯考えた、彼女への気持ちの贈り物だった。
「ねぇ、奏多」
考え事をしていると、理穂の呼び声がした。
はっとして顔を上げると、彼を見つめていた理穂と目が合った。その美しく深いブラウンの瞳に吸い込まれるように、彼もじっと見つめ返す。
少し間が空いて、それから理穂は口を開く。
ゆっくりと、一言一言を伝えるように、奏多に語りかけた。
「ありがとね。大事にする、ずっと」
にっこりと笑って、彼女はフクロウを大事そうに、ぎゅっと握りしめた。
真っ直ぐで、心のこもった、温かい「ありがとう」の笑顔。
……そうだ、僕も。
中学校生活も、あと数日で終わりだ。小学校――幼稚園から続いてきた、理穂と同じ学校に通う日々も、もうあと少しでおしまい。
本当に長い間一緒だった。理穂が傍にいてくれたから、理穂が手を引いてくれたから、今日の僕がいるんだ。
でもそのことを、その想いを、一度だって言葉にできたことはなかった。何度言葉にしようとしても、怖くて言えなくなってしまう。
でも、最後に伝えなくちゃ。
今まで言えずにいた感謝の想い。
贈り物をする勇気が持てた今なら言える。
ありがとう。本当に。
「――――――っ」
…………それでも、言おうとした言葉は、喉の奥につかえて出てこなかった。
心の奥では、こんなにもたくさん伝えようとしているというのに。もう少しで声に出せるというのに、言葉が鉛玉のように重たくなってしまう。
「…………うん」
ああ、いつもそうだ。理穂からたくさんのものを貰ったのに、僕は感謝の言葉ひとつ返せない。
なのに理穂はそのことを何も怒らないから、彼女の優しさにますます胸が痛くなるんだ。
本当は伝えたくて堪らないのに。いつもありがとうって、大切に想っているって。
不甲斐なさで、じんわりと視界が滲む。
奏多が俯いたまま黙り込んでいると、
「いやぁ、びっくりしちゃった、ほんとに」
再び、理穂の声が教室に響いた。
すると、今度は理穂が奏多に向かって両手を差し出した。
「――――これ、受け取って」
そう言うと、理穂はゆっくりと手を開いた。
――――それは、木彫りのウサギだった。
丁寧に美しく彫られていて、まるでウサギの体温まで伝わってきそうなくらい、見事で可愛らしい置物だった。
「え、これ……」
驚いて固まってしまった奏多に、理穂は照れ臭そうに笑いながら話し続けた。
「奏多とおんなじ――私も美術の制作で作ったの。最初は何を作るか全然決まらなくて……でも先生に言われたんだよね。『誰かのために作ってみなさい』って。それで、最初に思い出したのが奏多だったから」
「私、ずっと思ってたんだよね。ちょっと気弱なところとか、――こうやって私のために一所懸命作ってくれる優しいところとか、ウサギさんみたいだなって」
腕を組んで、確かめるように何度も頷く。
「でもまさか、お互い同じこと考えてたなんて…………やっぱり、幼馴染なんだね!」
そう言って、理穂は嬉しそうにころころと笑った。
お互いの胸の前に握られたフクロウとウサギが、光のカーテンのなかで、心を通わせるようにじっと見つめあっていた。
***
蘇る記憶の中、理穂の手に包まれたフクロウから目が離せない。
マジックで書いた、あの歪な眼。
背中にある、あの彫刻刀の傷。
形も大きさもバラバラの、あの羽根の模様。
……間違いない、あれは僕が作ったフクロウだ。
「は、はい!いらっしゃいませ!!」
やけに威勢のいい理穂の声が響き渡る。
奏多は心が弾んだ。
それ、まだ取っておいてくれたんだ。
理穂から貰ったウサギ、僕もまだ部屋に飾ってあるんだよ。
話しかけようと手を伸ばした、そのとき。
「……き、今日はどちらから?」
理穂は、奏多の瞳を見つめながら、言い放った。
…………え?
不意に、体の力が抜ける。眩暈がして、一瞬ぐらりと世界が揺れる。
ん、どちらから?……どういうことだ?
たしかに、先月は来られなかったから会うのは久しぶりだけど。それまでだって、そんなことを訊かれたことはない。
さっきまで何をしていたか、ということだろうか。……うん、きっとそうだ。そうに違いない。
……でも、なんでそんな、他人行儀な言い方をするんだろう?
「えっと……何かお探しですか?」
仕切り直すように、再び理穂が問いかける。
だめだ、理解が追いつかない。奏多は呆然としたまま、彼女の手元を指差した。
「その、フクロウの置物————」
「え?……ああ、これですか」
理穂は意外そうな顔をして、掌のそれに目を落とす。
奏多の脳裏には、最悪の想像が膨らみつつあった。……いや、本当はもうずっと前から、薄々覚悟していたことだった。理穂の状態を見ていれば、いつかそんな日が来るんじゃないかって。
だけど、認めたくない。知りたくない。
「えっと、これは……」
言いにくそうに、理穂は眉間に皺を寄せた。
やめてよ。そんな顔をしないでくれよ。
なんてね、冗談だよって。ずっと大事にしてんだって、そう言って笑ってよ。
「実はこれ、今朝いつの間にか、ここに置いてあったんです」
生温かい風が奏多の頬を掠める。
「……いつの間にか?」
「はい。…………買った覚えも、貰った覚えもないんですけど」
目の前が真っ暗になった。心臓に杭を打ちこまれたように、ズキンと鈍い痛みが全身を襲う。
理穂の言葉が頭の中で何度もこだまする。
貰った覚えがない。
そのフクロウが何なのか、分からない。
理穂は、そう言ったのか?
今日はどちらから?
何かお探しですか?
ついさっき聞いた、理穂の言葉を思い出す。
まるで、初来店のお客さんと話しているような、そんな距離のある言葉。
じゃあ、やっぱり、あれはそういう……。
不意に、いつかの臨床心理士との会話が脳裏をよぎる。
一度忘れたことは、もう戻ってこない。
忘れてしまった出来事は、彼女にとって無かったものになる。
ああ、そうか。
「…………」
————もう、君の中に、僕はいないのか。
「…………そう、なんですか」
絞り出すように返す。
認めたくない。信じたくない。
でも、どこかで分かっていた。
認められずにいるのはもっと苦しい。
自分を騙し続けられるほど、僕は強くはなれない。
顔を上げる。
あのフクロウは、このまま他の商品と一緒に売られてしまうのだろうか。誰か知らない人のところに行ってしまうのだろうか。……誰にも買われずに、いつかは捨てられてしまうのだろうか。
そんなことになるくらいなら……。
「――――もし売り物として置いているなら、いただきたいのですが」
彼の真剣な提案に、理穂は少したじろいだ。
だが、すぐに慎重に言葉選びながら問い返した。
「構いませんが……どうしてこの置物に興味を?」
「あ、えっと……」
今度は奏多の方が返答に詰まる。
理穂はもう、自分が記憶を失ったということも憶えていない。だからこの二年間、彼女を傷つけないように、忘れた記憶については触れないように、必死に努力してきた。
僕は君の幼馴染で、そのフクロウも、僕が君にあげたものなんだよ。
そう言うことは簡単かもしれない。それでも、理穂に悲しい顔をさせないために、ここまで積み上げてきた二年間を、奏多は裏切ることができなかった。
唐突に、自分が手に握っていた紙袋の存在を思い出す。
「……プレゼント——誕生日のプレゼントを探していて、相手がフクロウ……を好きなので、それで……」
苦しい嘘だった。これまで、話さないことはあっても、嘘を吐いたことはなかったのに。心の奥がチクチクと痛む。
取り繕うように、訊かれてもいない話がぽろぽろと溢れて出てくる。
「と、友達です。親友……と呼んでもいいのかな。————とにかく、大事な人なんです」
でも、これは本当なんだ。
もう伝わらないのかもしれないけれど。
君は本当に、僕にとって大事な人だった。
だが、理穂は腑に落ちない様子で返す。
「フクロウがデザインされたものをお探しでしたら、他にもモチーフの小物があったと思いますよ。たしかこっちの方に――――」
「いえ、その置物が欲しいんです」
つい、食い気味に訂正してしまう。
違うんだ。そういうことじゃないんだ。
でも、もう理穂は、僕がそのフクロウにこだわる理由は知らない。このフクロウに特別な意味が……思い出が詰まっていることを、彼女はもう知らないのだ。
…………ああ、ずっと大事にするって言ってくれたこと、嬉しかったな。
「そうですか……他に何かお探しのものは?」
「いえ……」
「それじゃ、こちらでお会計しますね」
理穂は奏多を置いて、軽い足取りでカウンターへ歩いていった。
<続>
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