掌編小説『偽善者』

 この世は理不尽なことに溢れている。
 特に俺は不運だから、その理不尽を被ってばかりだ。

 買おうとしていたレジ横の肉まんが、前の客で売り切れる。
 取引先に無理な注文を付けられて、丁重に断ったらクレームを入れられ、なぜか俺が上司に怒られる。
 会社に遅れまいと懸命に走っても、タイミング悪くすべての信号が赤になり、結局電車に乗り遅れる。それも電車のドアが閉まるのは、決まって目の前。

 そんなわけだから、俺はもう現世には期待していない。天国で、あるいは生まれ変わったときに素晴らしい生活を送ることができれば万々歳。


 だから、俺は今日も徳を積む。

 やらぬ善よりやる偽善。善行の機会を見つけては、神とやらにアピールするように率先して請け負うというわけだ。

「おばあさん! お荷物、重たいでしょう。向こうまでお持ちしますよ」
 信号を渡ろうとした老女を見つけ、駆け寄って声をかけた。
 短い昼休み、混まないうちに定食屋へ急ぎたい気持ちを押さえて、笑顔で横断歩道を渡る。
 ふん、これであの世での食事に、副菜一品くらい追加されただろう。

「君、迷子なの? じゃあ、交番のおまわりさんのところ行って、きいてみようか?」
 街角で泣きじゃくっていたガキの手を引いて、落ち着かせながら自宅とは逆方面に歩く。
 ガキが笑顔になるのを見て、内心しめしめと頷いた。
 ふん、これで来世では、高い買い物をした直後に安売りが始まったりすることはないだろう。

「あの、よかったらここ座ってください。私、次の駅で降りますから」
 乗ってきた妊婦さんに誰よりも早く気付いて、小声で席を譲る。自分の降りる駅はまだまだ先なのだが、気を遣わせないようそう言った手前、わざと次の駅で降りて一本次の電車を待つ。
 ふん、これで死んだ後に、毎日理不尽な思いをせずに済むだろう。

 帰宅した俺は、いつもの通り、電池が切れたようにベッドに倒れ込んだ。
 これで、今日も一日百善。これを続けていれば、来世は安泰……。こんなクソみたいな、理不尽な人生に振り回されなくていいのだから。

 突然、頭の中に声が響く。

「あなたのお陰で、楽に渡れたよ。ありがとうねぇ」
「面白いおじちゃん、ありがとう! また遊んでね!」
「すみません、ありがとうございます。立っているのもしんどくて……助かりました」

 ————ありがとう。
 今日だけで、百回も聞いた言葉。
 何回聞いたところで、俺には言われ慣れない言葉。


「…………」

 だから、俺は今日も徳を積む。

<了>

2024/02/05 亥之子餅。

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