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スノー・ドロップ #4「落花」

「素敵なお客さんだったな」

 男性が店を出た直後、風間がぼそっと呟いた。

「ええ、何だかバレンタインの由来となったという司祭みたいでした」

 もちろん、会ったことないので分からないですけどね。私の言葉に風間は笑って頷いた。

「風間さんはチョコ貰った経験とかないんですか?」
「おいおい、俺だってチョコの一つや二つ、貰ったことくらいあるからな」
「別に疑ってないですって、風間さんモテそうだし」

 訂正したが、風間は首を横に振って、深い溜息を吐いた。

「それが全然なのよ、全然。貰ったのも全部義理だし」

 俺もアメリカに生まれてくれば良かったのかな。そうおどける風間に、私は声を出して笑ってしまった。確かに、風間さんは待っているよりアタックする派のイメージだな。

 再びバックヤードに戻ろうとすると、不意に、さっきから春樹が黙りこくっていることが気になった。風間も同じことを思ったのか、振り返って呼びかける。

「おい春樹? どうした、そんな深刻そうな顔して固まって。……まさか、そんなトラウマレベルでバレンタインに良い思い出ないのか」

 本気で言っているのかジョークなのかよく分からない風間の言葉を、春樹は完全にスルーして、なぜか私に問いかけてきた。

「芽衣さん、今の男性がお買い上げになったのって、赤い薔薇を二本ですよね」
「……? うん、そのはずだけど」

「……赤い薔薇が二本のときの、花言葉は?」

 何を急に言い出すのかと思えば。
 薔薇は、その色と本数で花言葉が大きく変化する花だ。高校の頃に頑張ってたくさん覚えた記憶を、手繰り寄せる。

 確か、赤い薔薇の花言葉は「愛情」。
 そして、それが二本だと————。

 頭に浮かんだ花言葉は、口に出した瞬間、春樹の声と完全にシンクロした。


「『この世界は二人だけ』」


 おそらく、寄り添う二本の薔薇をカップルに見立てた花言葉だろう。
 急に言葉を被せてきたこと以上に、春樹がそんな花言葉を知っていたことに驚いてしまった。咄嗟に言葉に詰まる。

「……そ、それがどうかしたの? 素敵な花言葉じゃない。それも、奥さんに贈るならなおさら————」

 言いかけたのを遮るように、唐突に風間が声を上げた。

「————おい、まさか」

 風間の顔から、さっと血の気が引く。
 風間は春樹と顔を見合わせる。しかし、春樹もただ戸惑った表情のまま頷くのみで、結局二人とも言葉を失ったまま固まってしまった。

「え、ちょっと、二人だけで勝手に話進めないでよ」

 自分だけまったく話を呑み込めていないことに焦る。
 二人に詰め寄ると、春樹はごくりと固唾を呑み、それかや恐る恐る口を開いた。

「……ここから先は、完全に僕の想像なんですけど」

 そう釘を刺し、真剣な表情で話し出す。

「あの男性は、『花束に防腐の加工はいらない』って言ってましたよね」
「ええ」

 すぐに渡すから。そう言って彼は、花を長持ちさせるための処理を断った。
 防腐加工は、渡すまで美しく保つのはもちろんだが、渡した後に長く楽しめるようにするためでもある。別に追加料金もかからないのに、それを必要ないと言われたことは、確かに少し不思議だった。

「それから『花束を持って最愛の妻へ会いにいく』とも言っていましたよね。それも、花言葉が『この世界は二人だけ』の花束を持って」
「そうね、言葉だけだと伝わらない気がするからって」

「そして、『最後の一瞬に想いが届けば愛した意味がある』とも」
「うん」

 そうだ、しかしどこか物寂しそうに、彼はそれを綺麗事だと言っていた。その後、風間にそれを素敵だと言われたときは、すごく晴れやかな顔をしていた。
 そう、まるで心の迷いが——躊躇いが消えていったような……。

 ————————あ。

「もしかしたら、そういうことかもって……」

 彼が花束を「贈る」のではなく「会いにいく」と言ったのも、防腐加工が必要ない理由も、全部……。

「自分も、追いかけるから……?」

 愛する人と生きてきた、彼にとっては『二人だけ』の世界。だけど今は——。
 そんな、まさか。ありえない。

 だがそう思った刹那、あの男性の姿が脳裏に浮かぶ。
 大切な人を想う、優しい目。
 花束に想いを込める、温かい笑顔。

 ……もし、想像が本当だったとしたら——。

「————店番お願いします!」

 言うより先に、身体が動き出していた。

「おい、ちょっと待てって!! 確証もないし、今から探したところで——」
「それでも行かなきゃ!!」

 風間の制止を無視して、夢中で店の外に飛び出した。

 見つからないんじゃない、見つけなくちゃいけない。
 もしそれがあの男性の真意なら、気付いてしまった私たちには、彼を止める責任がある。どんな状況であれ、今私がすべきことはひとつだ。
 確かあの男性は、店を出て左へ行ったはず。迷わず道路に沿って走り出した。

 この道路の先は十字路になっている。立ち止まって迷っている時間はない。どっちに行ったか考えていても、先へ行かれてますます見つからなくなるだけだ。
 一か八か。十字路に差しかかると同時に、最寄りの駅がある方面へ曲がり、走り続ける。

 二月の冷えた空気が顔に鋭く差し込む。
 耳が、鼻が、頬が痛い。
 エプロン姿で、なりふり構わず走った。

 あの人は、心優しい人だった。花を売っただけかもしれないけれど、私にだってそのくらいは分かる。
 でもきっと、優しすぎるのだ。
 行かせちゃいけない。追わせちゃいけない。

 すれ違う人々が皆、何事かと心配そうな目でこちらを見ている。
 目を開くと冷たさで涙が滲む。
 それでも目を凝らして探した。
 見つけなくちゃ。見つけたら、見つけたら———— 。

 大きな通りに出た瞬間、必死で凝らす視線の先に、あの男性をとらえた。

 ————————いた。見つけた。

 男性は、駅前のスクランブル交差点に向かって歩いていた。いくつもの歩行者信号は一斉に青を告げており、多くの人が思い思いの方向に車道を渡って行き交っている。
 ベージュのコートに、グレーのマフラー。
 無造作な髪、優しい目。
 そしてその手には、二本の赤い薔薇の花束。
 凍るような寒さを必死で振りほどいて、彼に向かって一直線に走る。

「————待って!!」

 息を切らしながらも叫んで呼び止める。男性の歩く足が止まる。
 彼はゆっくり振り返って、さっきと何も変わらない、落ち着いた優しい目で私を見つめた。
 歩行者信号が赤に変わる。

「あの…………」

 しかし、言いかけたところで、言葉に詰まる。

 ————私はこの人に、何と言えばいいんだろう。

 考え直して。そんなの駄目。行かないで。

 ……いや違う、どれも私なんかが言っていい言葉じゃない。
 だって、彼のことも、彼の愛する人のことも――私はなんにも知らないんだから。

 ただの花屋がどうやったら、何をすれば、彼の結末を変えられるというのか。
 考えていた、言おうと思っていた言葉たちが、がらがらと音を立てて崩れていく。自分の無力さが膨れ上がってきて、頭の中が真っ白になった。

 一瞬の沈黙が続いた。
 すると不意に、頭のなかに、薔薇の花言葉が浮かぶ。
 思うより先に、口から言葉が滑り出た。

「……今は——『一人だけ』、なんですか」

 なんでそんなことを訊いたのか、自分でもよく分からない。
 でも自分の言葉なのに、その重みに自分自身が潰れてしまいそうだった。

 否定してほしい。勘違いだと言ってほしい。
 すべてが私たちの思い過ごしだと、笑い飛ばしてほしかった。

 男性は黙っていた。
 私にはその時間が、今までのどんなときよりも重く、永遠に続くかのように長く感じた。
 やがて、寂しさなんか微塵もないような、晴れきった笑顔で言った。


「————ああ、『二人だけ』に行くんだ」


 冷たく凍るような風が、俯く私と男性の間を通り抜けた。
 ああ、やっぱり、そうなんだ。

 身体が動かない。言葉が出てこない。
 止められるのは私だけなのに。止めなきゃいけないのに。

 だけど———— 。

 視界の端に映る、薔薇の花束。
 それは彼の愛する人への想いそのもの。
 花は人生。花束は想いを伝える言葉の代わり。

 そんな彼の決意に、私が言えること。


「……どうか、お幸せに————」


 やっとの思いで絞り出した震えた声は、北風に飲み込まれて遠くへ流されてしまった。
 男性の顔は、見ることが出来なかった。これ以上目の前のあなたを見ていたら、きっと私は、あなたを引き留めてしまうから。

 ——男性が笑った。
 顔を見ていなくても分かった。
 穏やかな優しい声で、男性は言った。

「大丈夫、君の花束は、気持ちを伝えてくれるから」

 男性の手が私の頭を優しく撫でる。男性の手は、まるで春のように柔らかく、温かかった。
 確かな温もりに、男性の明日の行方を重ねて胸が潰れそうになる。我慢していた涙がじんわりと視界を滲ませる。

 ……泣くな。私なんかが泣くなよ。


「君の花は綺麗だね。大切に持っていくよ」


 信号が青に変わった。再び交差点は無数の行き交う人で溢れかえる。

 ありがとう。じゃあね。
 そう言うと、男性は静かに歩き出す。
 そのまま振り返ることなく、人混みのなかへ消えていった。

 私は俯いたまま、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。


<続>

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