見出し画像

”お母さん”じゃない”わたし”に価値がある?

人気ドラマの主人公が「いたしません。」と言う。
”医師免許がなくてもできることは一切致しません”と。
わたしは医師免許なんて大層なものは持っていないけれど(そもそも運転免許証すら持っていない)先日たまたま同じような言葉が口から飛び出した。

「お母さんじゃなくてもできることはお母さんに言わないで!!!」

ゴム手袋を着けたわたしは、ココアのシミがついたトレーナーや膝やお尻が泥だらけになったズボン、真っ黒に汚れた靴下を洗面所でやっつけて更に1週間はいた上履きを洗っていた。二人ぶん。
そこに「喉が渇いた」だの「パンダ描いて」だの怒涛の”アレやってコレやって攻撃”を受け、つい出てしまったのが前述のセリフだ。
だって夫もいるのに。そこでジャンプ読んでるのに、なんで今一番忙しくしてるわたしに言うんだ。と。

::::::

”お母さんじゃないとできないこと”
それって、もしかしたらほとんど無いんじゃないの?

上履きをたわしでこすりながら降ってきたのはそんな疑問だった。
洗濯をするのだって、ご飯を作るのだって、ゴミを出すのも送り迎えもPTAも町内会も、お母さんじゃなくたってできることばかりだ。
あれあれあれ?
そうやって消していったら”お母さんである必要”のある事柄なんて、一番最初に遺伝子を分けるところだけになっちゃう。
考えれば考えるほど”お母さん”の存在がちっぽけになっていって、いつかプチンと消えてしまいそうだ。

心細さと心許なさに、わたしは洗濯をしたりご飯を作ったりすることにすがりたくなる。「お母さんっぽいこと」をして安心したがっているのだな、と上履きについた石鹸の泡をすすぎながら微かに答えの尻尾が見えた気がした。

そんな日の夜、「伝説のお母さん」というドラマを見た。

初見の番組だったので登場人物の関係性や内容をちゃんと捉えられているか不安だが、その日の放送では”女が子育てをするべきという空気”に苦しむワーキングマザーの苦悩が描かれていた。
史上最強の魔法使いだが、現在はワンオペ家事育児に奮闘する主人公は割と「家事育児は母親の仕事」という考えの強い人で、子供を預けて仕事に熱意を燃やすワーキングマザーに対してもやもやとした感情を持っている。

きっと日本では主人公側の考えを持つ人が多いだろう。わたしだって「食事は手作りがいいんじゃないか」とか「お母さんが家にいないと子供がかわいそうなんじゃないか」とか考えてしまう側の人間だ。

でも、ふと昼間のことを思い出した。
”お母さんじゃないとできないこと”はほとんどないのだ。
確かに”社会の空気”もあるだろう。でも”お母さん”が自分自身にかけている呪いもあるんじゃないのかな。
社会から切り離されたところで子育てしている専業主婦ならなおさら。”お母さんっぽいこと”をしていないと自分の存在が、価値が、薄くなっていってしまうような気がして不安でたまらないから。母親という役割に縋ってしまうというところはある。わたしは。

”母親”を取っ払った名前のないわたしに何があるだろう。
何ができるだろう。何になれるだろう。どこへ行けるだろう。
答えは見つからないし、呪いの効果はだいぶ強力だ。

広い広い原っぱで四葉のクローバーを探すように、わたしは今日もnoteを書いている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?