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守るべきは、国か命か尊厳か?

ロシアのウクライナ侵攻もミャンマーの内戦も、いまだに解決策が見えてこない。

現状を把握するための情報は、既に十分にメディアにあふれており、大本営発表でしか異国での戦況を推し量ることができなかったアジア・太平洋戦争の頃とは、まったく違う環境にある。

ミャンマー問題の露出度や関心度は、ウクライナが戦争状態になってからというものの格段に落ちてしまったが、先のNHKスペシャルなどは、さすがの取材力で、現状を十分に公平に伝えていた。https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/pAjyN04RrM/

日本にいる我々は、何者かから統制を受けているということはなく、決して盲目状態に置かれているわけではない。取りに行こうと思えば、かなりの情報を取りに行くことはできある。

その報道されている内容はと言えば、先のNHKスペシャルも含めて、ほぼ、破壊したのは誰か、殺したのは誰か、みたいなことに焦点が当てられているように見える。

真実を明らかにすることこそが報道機関の本分であるのだから、そこに注力することに異議はない。けれども、今、犯人探しに終始することに、果たして何の意味があるのだろうかという思いも、私の中では強くなってきている。

もちろん、後日、国際司法の場に訴える際などには確かな証拠の提示が必須となるのは分かるが、ぶっちゃけて言えば、犯人は誰かなど、もはや誰でも知っている。

どんなに真実を暴こうとも、「相手側の自作自演だ」とか「民衆を盾に兵士や武器を隠している」とか、やったのは奴らだ!で押し通す。どこまで行っても水掛け論。果てしなく続く泥仕合に終始してしまうだけだ。

いつの間にか、「フェイクニュース!」「不正があった」で結果を無視するということが、まかり通ってしまう世の中になってしまった。
この、言わば「ゴネ得」をトレンドにしてしまったのが、トランプ前アメリカ大統領だろう。

4年に一度のアメリカ大統領選挙と5年に一度のミャンマー総選挙が、たまたま同じ年の同じ週に行われたという、あり得ない確率での偶然。

その後、勃発してしまったアメリカでの選挙後の大騒乱。
それからしばらくして発表されたミャンマー国軍の「選挙に不正があった」発言。あれは、あのアメリカの空気に乗っかったように見えた。
私は、トランプ氏の「不正があった」発言が、ミャンマー軍のクーデターを誘発したと思っている。

そして、現在、世界の正義は、ロシアがウクライナの一般人に、そして、ミャンマー軍がミャンマーの一般人に行った違法行為、いわゆる戦争犯罪の追求へと向かっている。

果たして、今やるべきことは、その方向でいいのか?本当に進むべき道は、そことは違うのではないか?

法的手続きを遂行している間にも、戦場では日々多くの方々が命を落としているというのに。

この戦いをいかにして終わらせるか、いかにして犠牲者(死者)をなくすか、という議論は、いったいどこへ行ってしまったのか。

地上戦ではPDF(国民防衛隊)と少数民族独立軍が優勢だけどミャンマー軍は空爆で応戦しているとか、◯◯市はロシア軍が制圧しているけど◯◯市ではウクライナ軍が押し戻しているとか、なんか、将棋の戦況を俯瞰するかのような感覚で報道を受け取ってはいないだろうか。

この三ヶ月で、ヨーロッパの地理、とりわけウクライナの地理には思いがけず詳しくなってしまったが、その地図で示された現地では、日々犠牲になっている人たちがいる。その人たちと、私たちはどれほど痛みを共感できているだろうか。

犠牲となっている一般人の状況や心情は、報道で伝えられてはいる。そこで、これはゲームではなく、リアルな命のやり取りが行われているのであるということを、感性の強い人ほど、より共感することはできる。

そしてメディアは、これは戦争犯罪なんだと、怒りの共感に訴えかけてくる。

では逆に、犯罪ではない合法的な戦争って何だ?

ルールに則った平和な決闘と言えば、スポーツ以外には私は思いつかない。
一般人ではなく職業兵士や志願の民兵なら、何人の命を消費しても構わない、それは彼らの本望でもあるのだから、とでも言うつもりか。

一般人を戦闘に巻き込み命を奪ってしまうような行為が非人道的であるということは、ほぼ世界の共通認識になっていて問題視している。それを額面通りに受け取ると、一般人ではない兵士同士の戦いであれば非道であってもいい、と認めていることにはならないか。

兵士は決してバトルマシーンではない。人間だ。親や兄弟や子供や親友などもいるはずだ。皮は裂け血は流れ、耐え難い激痛に襲われ、今際(いまわ)の苦しさたるや、亡くなった者にしか分からない。

兵士や義勇兵や民兵の死を、決して妥当だと思ってはいけない。同時に、彼らの死を決して称えてはいけない。
彼らは、家族や友人や国や、さらには自らの尊厳や信念のためなら自分の命を落とすことも惜しまない、怖くないと言う。

残念だが、その志は称賛には値しない。否、称賛すべきではない、と言うべきだろう。

一人の勝者の向こうには一人の敗者(死者)がいる、それが戦争なのだ。それを分かっていて称賛する訳にはいかない。

戦いの当事者の正義感は至って純粋で、彼らの言葉に嘘はないかもしれない。
けれども、彼らは、いわゆる一種のホリック(holic)な状態になっているのではないだろうか。なので、死ぬのが怖くないというのも本当だろう。

その彼らの正義感を煽って戦場に見送り、その恩恵によって我が身を守れているという姿勢。これもまた、一つの戦争犯罪の共犯とは言えないだろうか。

前線で命を落すのは彼らの意志によるもので本望だったかもしれない。
けど、そうなる確率が高いと知りながら止めなかった者も、彼らの命を守ろうとしなかったということには違いない。直接殺した敵兵ではないまでも。

とかく渦中にいる者は、自分の居場所を客観的に俯瞰できないものである。
ホリック状態にない、例えば第三国の者は、味方が何人亡くなったとか敵兵が何人死んでいるなどと、一緒になって一喜一憂している場合ではない。

自らの命を落とすことも他人の命を奪うことも、共におかしいことなんだ、間違っているんだと、当たり前のことを堂々に言える世界でなければならない。ホリック状態にある者を正気に戻してあげなければならない。
彼らの命は彼らだけのものではなく、生物誕生以来の累々たる先祖のものでもあり子孫のものでもあるのだから。

いかに、この戦いを終わらせるか、いかに、人を死なせないか、ということに、もっともっと知恵を絞るべきだと私は思う。

以前の投稿に、ある日本人が、次のような言葉を寄越してくれました。
……….
嵐は、日々清廉潔白に生きていても、来るときは来る。そういう時は、身を低くして、できれば安全なところに退避して、嵐が去るのを待つのみ。死んで後進に託す、は、一見かっこいいけど、そうじゃなく、生きて&自分で&やりなさい!と、私は言いたい。自分でやるためには、生きなきゃダメなのよ!とも。
https://note.com/inochimyanmar/n/nd87b46cbb722
……….

私は、ミャンマーの内戦に関しては、国軍の兵士の中から投降者が少なからずいるということが、好転のきっかけになるのではないかと希望を持っている。
死にたくない、殺したくないと、まだホリック状態ではない兵士もいるということだ。

彼らを国民防衛隊の一員として受け入れるのではなく、投降したなら、もう武器は持たなくてもいいんだと、人民側が保証してはどうだろう。

そして、例えば、食料を増産するための農業や畜産業や、内戦とCDM(市民不服従運動)によって荒廃した山河を修復するための植林活動などに従事する義勇隊となってもらうことなどを約束してはどうだろう。

長い目で見れば、そのように武力放棄を促すほうが、人民側の兵力の増強を目論むよりも、国軍の内部崩壊、と言うか、正常化に結びつくような気がするのだが。

問題は、NUG(国家統一政府)に、そこまでの肝っ玉、度量があるか否か…

真剣に考えるべきは、どっちが勝つか、ではなく、いかにしてこの戦いを終わらせるか、ではないのか。

報道機関を初め、現在、世界の正義が突き進んでいる裁くことや糾弾すること。それはもちろん正当なことだが、相手を攻める行為には違いない。攻撃には、戦いを根本から終結させる力はない。

それよりも、殺戮に手を染めてしまった者にも残っているかもしれない人としての良心、それを汲み取ろうという努力はできないものだろうか。
最後は許容することによってのみ、真の終戦は叶うのだろうと、私は信じている。
 
引き続き、自由なご意見をお待ちしております。

決して市民の武装化には加担しない支援の仕組みを確立されている団体なども、ご存知でしたら、ぜひご紹介ください。

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https://www.help-note.com/hc/ja/articles/900000936783-note%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AE%E7%99%BB%E9%8C%B2%E6%96%B9%E6%B3%95

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