霊との交わり

中学2年になったばかりのある日の夜中、千吉神社の方向に現れたまばゆい光で目が覚めました。太陽が昇ったのかと思うぐらいの明るさでした。しばらく見入って、また寝てしまったのですが、それから数日して、霊障が始まりました。

毎夜、男の霊が覆いかぶさって来て、身体をまさぐります。抵抗しても抵抗しても、また覆いかぶさって来て、朝まで眠りに落ちては起こされ、まさぐられて、毎夜のように霊たちと格闘し続け、私には安眠はありませんでした。誰にも言えず、毎朝、眠くてフラフラでしたが、独りで耐えていました。

友だちに具体的なことは言わずにチラッと相談してみたら、「そういうものは全部、頭の中で作り出しているという説もあるね」と言われ、そうかな?そうなのかな?と思って、試しに抵抗せずに、頭の中で作り出しているかどうか確認していたら、何かが身体の中に入ってくるではありませんか。

自分の身体の構造など知らなかったし、どうやったら子どもができるかも、里中満智子の漫画に描かれていた男女が身体を重ね合わせるぐらいのことしか知らなかったので、とてもビックリして、なにがどうなっているのやら、全くわかりませんでした。ただ、そこには、究極の快感だけがありました。

​霊は、こっちが受け容れるまで、しつこくしつこく何度でも襲ってくるので、疲れて油断している隙に虚を突かれて挿入を許してしまうこともあるけど、諦めずに跳ね除ければ、中断させることはできました。その日、最後まで守り通したところで、翌日以降も続くのですから、大して変わりはないかもしれないれけど、それでもされるがままになるのは不本意でしかなく、睡眠を削って、抵抗に抵抗を重ねてきました。ここで許したら、ナメられる。寄ってたかって、襲われる。自分の尊厳に関わる問題として、ひとり、踏ん張って、孤独に闘ってきました。

全ての霊が性交だけを目的にやってきていたわけではありません。

高校に入ってから、白い女性の手指にしつこく頬や首筋を触られ、とりわけ気持ち悪かったので、渾身の力で振り解いて、両親が話し込んでいる部屋へ息を切らして駆け込んだことがありました。はぁはぁ言う私に「どうしたの?」と母が訊き、「か、金縛りに遭って…」と答えると「気持ち悪いこと、言いなさんな!」と大声で怒鳴られました。父は、「まぁ、そう言うたるな。そういう体質の者も、おるんやから」と諫めてはくれましたが、言ってみれば「それだけ」で、私は再び、自分の部屋に戻って、寝るしかありませんでした。いま思い出すと酷な毎日だったなと思います。

実家は、漫画家の手塚治虫氏が幼少期から昆虫採集をしていた千吉の森の隣で、いわゆる霊道になっていたようです。しかも私の部屋は裏鬼門に位置し、余計にそういう目に遭いやすかったのだと思います。

ある時は幽体離脱して、千吉の森の参道の畦道に降り立ち、一反木綿と唐笠小蔵に出会いました。夢と現の間の世界へ迷い込んだ感じがあり、妖怪が目の前に現れたのが意外で、面白くて、翌日、仲のよい友だちに話しました。

男の霊に襲われた話をすると、「毎回、同じ霊? その時々で違うの?」と訊かれることがあるのですが、霊の個性を認識するほど心を寄せていないので、何体の霊かなんて、わかりません。ただ、高校のある時期には、同じ複数の霊にずっと纏わりつかれていた気がします。ある年の夏休みは、横になったらすぐ来て、私も抵抗するのに疲れて、減るもんじゃないし…と思って、自棄っぱちになっていました。その時の感覚は、まるで売春宿でヘロインに耽けながら、複数の男と来る日も来る日も、肉欲に溺れ、将来に夢も希望もなく、ただやり続けるだけの哀れな女のようになっていました。数日でハッと我にかえり、「こんなことやってたらあかん!」と思って、断ち切りましたが、性的快感は、それに溺れてしまう危険性を帯びていると思います。

結婚してからも、いろんな目に遭いました。

多いのは、女性が膝枕をして髪を優しく撫でてくれるパターンでした。指先が優しくてゾワゾワして、セクシャルに、とても気持ちいいんです。

女性の霊は、そっと手を握ってくれたり、胸にそっと手を当てて、大丈夫よ、とでも言うようにフと目を覚まさせて、去ったりもしました。肉親の誰かなのかもしれません。

ある時は、やけに胸の辺りが重いだけで特に何もして来ないので、何かと思って目を開けると、目の前に何か動いていて、ようやく焦点が合ったと思ったら、猫が静かに毛繕いしていたり、犬が耳の後ろを後ろ脚で激しく掻いていたり。襖がヨタヨタ、宙に浮いて歩いて行ったこともあります。
亡くなった祖父の書の掛け軸の前にお茶を供えて、数日間、ほったらかして昼寝していたら、祖父が現れ、皺枯れ声で「お茶、換えてくれ!」と言うので、慌てて湯呑みを覗き込んだら、表面にカビが浮いていて、「おじいちゃん、ごめん!」と吹き出してしまったこともあります。

空気の薄い時代の巨大な原始生物らしきものに下半身を囲まれたことも2、3度あります。15センチ×10センチぐらいの球形で、茶色い繊毛に覆われていて、全身を振動させながらゆっくり動き回る生物です。その振動が敏感な部分に当たり、一瞬でイってしまいました。その時、なんでわざわざそこに当ててくるのか、もしかして、原始生物にも生殖の快感はあるのかなぁ?と思ったりもしました。

30歳前後になると、あまり襲われなくなりましたが、昼寝をしていた時に久しぶりに覆い被さられたのは、高校時代に好きだったグラハムボネット似のカッコイイ白人。生き霊なのか、まだ死んだばかりなのか、非常にエネルギッシュで、普通の霊と異なり、男性自身の太く硬い体感が非常にリアルに感じられました。その時、なぜか初めて咄嗟に自ら腰を振って、積極的に応えてしまったのです!笑 

その白人の霊はとても喜んでくれて、「よかったよ」とウエストのあたりをポンと叩きながら、左の耳に音を立ててキスをして、カッコよく去っていきました。

いま思い出しても自分のはしたなさに苦笑してしまいますが、私のところに来る霊が腰を振ることは基本的にはありません。細いものがスルッと入ってきて、スルッと出て行くだけです。その時の接触面全体が究極の快感をもたらすのです。えもいわれぬ快感です。それを考えると、男性自身の形状にこだわりがあり、腰を振ったあの霊は、生霊だったのかなぁ?と思います。

ある年の終戦記念日の直前に昼寝していた時に、バッと覆いかぶさってきたのは、軍服を着た日本兵でした。古ぼけたセピア色の上半身の写真で正体を見せてくれました。咄嗟に迷いが生じ、いつものように跳ね除けるのはやめて、目を閉じて、終わるまでじっとしていることにました。従軍慰安婦と自分を重ねて見てしまいました。この話をするとほとんどの女性が「優しいね、偉いね」と言います。

3次元の肉体は重力の支配を受けるので、物理的な摩擦が快感を軽減させるところがありますが、霊との交わりは、そういうマイナスの要素が一切なく、ただ純粋に、快感だけがあります。

よく、自分が快感を得るための道具として人の身体を「使う」かのような表現がされますが、基本的に性の快感はお互いに与え合うもの、一方だけが得て、一方が与えるという構造にはなっていなくて、与えることと受け取ることが同時に、平等に、同じだけ起きるのだと思います。

性というものについてそのように考察しながらも、どこの誰ともわからない複数の霊に挿入を許してしまったことと、快感を感じてしまった後ろめたさと忌々しさで、この体験はお墓まで持っていくしかないと思い定めて生きてきました。

その後、書画家小林芙蓉先生に出会い、浄化力も授かって、毎朝の読経を続けていたおかげで、ほぼ霊障も無くなっていたある日、昼寝をしていたら、とても軽やかで爽やかな存在がフワッと覆い被さってきました。「来たな」と思った瞬間、2本の指で襞を広げ、細い糸のようなものが強烈な快感を伴って入ってきました。その鮮やかな手技と全身を走りぬけていく快感の衝撃に圧倒され、「今のは何だったんだろう?」と、しばらく放心状態で横たわっていました。しばらくして、我に返って起きあがろうとした時、まだ中に入っていた糸のような細いもの(もしかして、「点」かもしれません)がスルスルスルと、再び強烈な快感を伴って、出て行きました。私は完全に覚醒した状態であったにもかかわらず、この世のものとは思えない強い快感を味わい、思わず身体をくねらせました。

そして、またしばらく放心状態で横たわっていました。その存在を何かに喩えるなら、「ルパン三世が仙人になったみたいな感じ」です。

こんなに清く軽やかな存在には出会ったことがないと思えるくらい、相当、次元の高い存在だと思うのに、いきなり入ってきて、出て行った…

まるで私という存在を祝福するかのように、強烈に愛でて、出て行った…

そのこと自体が衝撃で、しばらく横たわりながら、「これまでいろんな霊に襲われてきたけど、思い起こせば、一度も侮辱された感覚はなく、むしろ、愛おしく全身を愛でられた感じが残っているなぁ」と思えてきたのです。

この体験をきっかけに、私の霊との交わりに対するイメージが書き換わっていきました。

霊は確かに同意なくいきなり覆いかぶさって来て、身体をまさぐり、不躾に挿入してくるのだけど、高次の存在が私に行った行為は「究極の挨拶」のようでした。私という存在が女であり、いま挨拶を交わした相手は男であるということ。男からの女へ向けられる究極の挨拶です。言葉にするなら、「やぁ、こんにちは。お綺麗ですね。お健やかに」という感じ。それ以上でもそれ以下でもない感じです。

そう思い立った時、現代人は性にだけ特別な意味を込めすぎているのではないかと思えてきました。昔はもっと大らかで、男女とも、惹かれ合って交わることに今ほど重い意味を置いていなかったのではないかと… 肉を貶める訴訟社会の他国の影響で、性の概念が歪められ、男女とも不自由になって、頭で考えて、無駄に傷つけ合っている気がして… その価値観で見ている限り、男女とも、赦し合って癒されることはないのではないかと…

以前は私も「霊に強姦された」と思っていました。相手が生身の人間であれば、犯人は誰かを突き止めて、刑に服させることもできるけど、霊が相手だと訴えていく先もない、泣き寝入りするしかない、私の睡眠を返せ! と、被害者の視点に立って怒っていました。

しかし、霊との性行為は変性意識状態で行われ、夢に近いからなのか、全くトラウマにはなっていないような気がするし、霊は性欲に純粋で、ただがむしゃらに纏わりついてくるだけで、辱めを受けた気も、道具として扱われた気もしないのです。若い頃に、道ですれ違った大型犬ボルゾイを撫でようとしたら、肩に前足をかけられ、腰をカクカクされて、きゃー!と笑いながら叫んだことがありますが(飼い主の方はめちゃくちゃ慌てて謝り通しでしたが)、霊もそれに近いのではないかなと思います。

私はこれまでに、実の父親や義理の父親から性的虐待を受けた女性と話したことはありますが、知らない男から強姦された人の話を直接、聞いたことはありません。私の中に答えがあるわけではありませんが、ただ、頭で考えて自ら刻み付ける二次的、三次的な心の傷というものが、余計に被害者を苦しめている気がします。


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