間違った他人を許せない

間違った事をしている人を許せない
道徳に反する行為をしている人を許せない
他人に迷惑をかけている人を許せない
部下が怠けているのを許せない
など

いわゆる、
〇〇した人はとんでもない人間だ、許せない
という状況だ。

こういう状態を「正義中毒」と示す情報もある。
「〇〇中毒」という言葉もネガティブなイメージを与える言葉に感じるが
分かりやすいと言えば分かりやすい気もする。

しかし、ここにあるのは
・自分の中にある考えと、実際に確認した出来事の間に生まれた誤差
・その誤差を埋めようとする反応
・他人に影響を与える事に成功すると気持ちいい
という人間らしい反応だと思う。

人間らしい反応が社会的に好ましいかどうかは横に置いておいて
「間違っていると感じた他人を許せない」
と感じる事は何かを実行に移すかどうかは別としてごく普通な反応だとは思う。
ただ、そういう風に感じないという人もいるだろうからそれもまた普通だと思う。

自分の考えと現実に誤差を感じた時に、どう思うかは人それぞれだし
それ自体が、その人個人の反応形式という個性になる。

では、
例えば
「道徳に反する行為をしている人を許せない」
という場合にその人にアクションを起こす場合と

「部下が怠けているのを許せない」
という場合にその人にアクションを起こす場合は同じだろうか?

脳の反応形式としては似たようなものだろう
しかし、
法的、社会習慣的、流行り的には違う
ここがいつまでたっても話がまとまらない理由の気もする。
だから、スッキリしないしモンモンとするわけだ。

あいつが何かよからぬ事をしているぞ!

許せない!(いわゆる認知的不協和)

アクションを取る or 自分の考えを変える

という流れを取ろうとする事になる。
しかし、なかなか自分の考えを変える事もこれまた難しい

例えば、部下が失敗をしたとする
その時にビジネス書などでは

まずはねぎらの言葉をかけて
次に事実を伝える
またねぎらいの言葉をかける
というサンドイッチ方式や、流れを見て情報提供したり、伝える方法や人を変えたり
というような事も書いてある。
このあたりのパターンは、書籍の好みやその時の流行りなんかで変わってきているがここ数年は「心理的安全性」が流行っているようにも感じる。

話を戻して、この方法は正直言って伝える側からしたらとてもストレスがたまる気はする。
上司が部下に変わってもらいたいと思っているストレスと
部下が上司に変わってもらいたいと思っているストレスは近いと思う。

お互いに「だからあいつは」という考えがまさに認知的不協和でありふれた反応なのだ

では、間違った他人を許せない時にどうすればいいのか
・「コラ!」と怒って相手を変えるようにアクションするか?
・自分の考えを変えてアプローチの方法を変えるか?

それぞれに良い点も悪い点もあるだろうが、最近は「コラ!」は流行らない傾向に見える

どちらにしても色々ストレスやら問題があるのだが第三の方法として
接触を断つ
という方法が軽視されているようにも思える
確かに会社の上司や部下で、そもそも仕事上で「接触を断つ」事自体があまり現実的ではない事も多い
なんでもかんでも解決できるわけではないのでそれはそうだろうと思う

しかし、普段触れる情報はどうだろうか?
その情報に触れて「こいつを許せない」と感じた時に
その情報は本当に触れる必要があったのだろうか?

もしかしたら、過剰な情報は毒かもしれない。