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心に残るデザインってなんだろう | デザインの科学①

感動的、印象的など、ずっと心に残る表現ってどんなものでしょう。
例えば、こんなものは初めて見たと言う時、規格外のスケール感で驚いた時など、予想を上回る光景や形状のものに遭遇したら、忘れられないくらい記憶に残るかもしれません。インパクトってやつですね。

しかし、これらをデザインの手法として、意図的に取り入れていくには、あまりにも原始的です。そうそう毎回使える手段でもありません。
それではインパクト以外で、どのように心に残るものをつくって行けば良いでしょうか。それは、共通認識をコントロールすることです。

共通認識と言っても世代や地域、生活様式にっても様々な齟齬が生まれるので難しいのですが、今回はマーケティングの話ではないので割愛します。

鍵は共通認識にある

はじめに、共通認識の認識度合いについてです。これは、伝える相手が確実に知っているものではなくても問題ありません。
“なんとなく知っている“ あるいは、“なんとなくそんな気がする“ など、曖昧なぐらいの認識でも十分です。

お笑いのネタに、あるあるネタってありますよね。あるあるの内容は、それを正確に経験していなかったとしても、反応して笑ってしまいませんか?
なんとなくそんな気がする程度の、潜在レベルの認識でも共感はできてしまうのです。

年末年始にテレビで何度も流れた “香水” の歌詞もそうです。
別に夜中にいきなり届いたLINEで、リフレインした出来事もないのに、自分の経験のなんとなく近い記憶が重なって、感動できてしまいます。

どうやら人間って、全く同じ経験がなくても、都合良く想像で補完することによって、共感できるように作られているようです。

因みに “エモい” という感情はこのロジックでできています。
目の前にある風景、音楽、薫り、フィクションなどの中に、今はない過去の感情が追従しようとする時にエモくなるんです。

アウトプットと掛け合わせてみる

共通認識について、ぼんやり理解して貰えたかと思いますが、共通認識さえあれば、心に残るものがつくれかと言うと、まだそうではありません。
現段階では、合鍵を見つけた程度で、どの扉を開けるのかは別の話になります。

その扉側が、ポスターや映像、文章など、視覚的に(場合によっては聴覚的に)接触できるアウトプットになります。これも大きく2つに分けることができます。

端的に言うと、“わかりやすいもの”と“わかりにくいもの”です。ここで補足をしておくと、“わかりにくいもの” が必ずしも表現手法として悪い訳ではありません。モデルの顔の表情から感情が読み取りにくい、または、幾何学的な模様が何を表しているかわからないなど、それ単体ではわかりにくいという意味です。

逆に、“わかりやすいもの”に関しては、説明的や明示的なもの、表情から感情が読めるもの、などが含まれます。

さて、この2種類のアウトプットに対して、前提として共通認識がない場合、ある場合を掛け合わせてみます。一番心に残る表現が生まれるのはどれなのか、4つの中から浮かび上がります。

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①共通認識がないけど、わかりやすいもの
世の中には、この表現のデザインが一番溢れています。キャンペーンを伝えるLPやナバー、新商品のメリットを訴求するチラシなど、情報を整理して分かりやすく伝えます。心に残る表現と言うよりは、中身の内容が記憶される感じでしょうか。むしろ、それができたら成功というべきです。

このパターンは元々、誰にも認識がないものが多いので、インパクトに頼ることが多いです。
少し前のPayPayのCMがそうでしたね。

ペイペイ、ペイペ、ペイペイ… 100億円!

②共通認識があって、わかりやすいもの
これは一見すると、一番良さそうなのですが、周知の事実を想像どおりの表現で伝えることです。つまりギャップが無く、普通に思える内容なので、受け止め側からすると、カタログやパンフレットを眺めている感覚かもしれません。

それどころか、せっかく心に残る内容なのに、それを台無しにする可能性も秘めています。
想像してみてください、もしも “香水” のタイトルが、“元カノから連絡きて切ない件” というタイトルだったとしたら… 歌詞の内容はその説明でしかなくなります。

③共通認識がない、且わかりにくい
これは、あってはならないパターンです。意味不明としか言いようがないでしょう。
それがどれだけカオスかは④で想像できると思います。

④共通認識があって、わかりにくいもの
実はこれが一番心に残ります。
前提としての、それが何であるかの認識がある場合において、なぜこのような表現に至ったのか、わかりにくい部分を埋めようと考えるわけです。
ただの受動的な認知ではなく、知ろうとする能動的な認知に変わっているのです。

僕の好きな広告で、LEGOのポスターがあります。
僕は子どものころ、実際にはLEGOではなく、リブロックという別メーカーのもので遊んでしましたが、確かに見えました。単縦な組み合わせのブロックが、バスや飛行機に見えたんです。
ブロック遊びをしてこなかった大人にはきっとわからない表現かもしれません。

マンガのスラムダンクの話になってしまいますが、山王戦で流川が桜木にパスをするシーンがあるんですね、しかもセリフも無しです。何も知らずに、そこだけ読んだ人なら、パスしただけじゃん、って思うかもしれません。しかし、二人の関係性をずっと読んできた読者からするとグッとくるシーンだったりします。
例えそこにセリフがなかろうと、想像で全てを察して感動することができるんです。

ちょっと毛色が違いますが、テレビCMは、よくこの手法を応用して使っています。例えばアイフルのCMでお馴染みの「そこに愛はあるんかい。」と女将さん言い続けるあのCMです。
昔は、然るべきシチュエーションで使われていて、シリアスなシーンもありました。しかしどうでしょう、最新バージョンはまるでカオスです。これも共通の認識があるからこそ、あえて違和感を残すことができるんですね。
違和感は記憶の片隅に居座ることができます。
逆に、初めてあのCMを見た人からすれば、意味不明でしかないでしょう。③の状態です。
他にも、auの三太郎、ソフトバンクの白戸家、ハズキルーペも同じです。
前提としての共通認識を、先にこちらでつくってしまうことで自由に違和感を出すことができます。

共通認識は既に世の中ある事象でもよいですし、ストーリーテリングのように、こちらから導いても良いと思います。

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まとめ

このように、前提にある共通認識と視覚的情報の間にあるギャップによって、様々な感情を記憶して、心に残すことができます。
情報が “わかりにくいもの” が決して悪いわけではないのです。大事なことは、どんな人たちなら共通認識を持っているのかです。

デザインのフィードバックをもらう時、どうしても見た目の良し悪しをレビューしがちですが、もう一つの視点として意識すると良いかもしれません。

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