続・“芸人に教養は必要なのか”問題:教養は「必要」ー 福田恆存著『私の幸福論』

以前、「「あれは漫才なのか?」というか「漫才って何?」」と、その後に「“芸人に教養は必要なのか”問題??」という拙稿を書いた。

最初の拙稿にも書いたが、私は漫才に疎い。特に興味もない。
記事を書いたのは、2020年の『M-1グランプリ』の優勝コンビに対する「あれは漫才なのか」という論戦(?)に端を発して、ダウンタウンの松本人志氏がテレビ番組(フジテレビ『ワイドナショー』2020年12月27日放送分)で発言した、以下の「漫才の定義」に興味を持ったからだ。

「漫才の定義は基本的にない」「定義をあえて設けることでその定義を裏切ることが漫才」

文春オンライン 近藤正高氏『「やっぱり0から生み出す人がカッコいい」 松本人志ツイートで浮かぶ“芸人に教養は必要なのか”問題』より引用

次の拙稿は、文春オンラインに掲載された「芸人に教養は必要なのか」という記事に興味を持ったから書いてみた(結果的に、そんな内容にならなかったのだが)。


それらを書いた後も色々考えて(漫才ではなく「教養」の方を)いたところ、福田恆存著『私の幸福論』(ちくま文庫、1998年。原書は1979年出版)に所収された「教養について」という文章を見つけた。

ちなみに、福田恆存という人、Wikipediaでは以下のように紹介されている。

福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年(大正元年)8月25日 - 1994年(平成6年)11月20日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。現代演劇協会理事長、日本文化会議理事、日本芸術院会員
(Wikipedia「福田恆存」)


その「教養について」で、福田はこう書いている(下記引用文の太字は、全て引用者による)。

「教育がある」ということは、かならずしも「教養がある」ことを意味しません(略)
では、教育と教養はどうちがうのか。一口にいえば、教育によって私たちは知識を得、文化によって私たちは教養を身につける。

文化によって培われた教養と申しましたが、いうまでもなく、教養というものは、文化によってしか、いいかえれば、「生きかた」によってしか培われないものです。ところで、その「生きかた」とはなにを意味するか。それは、家庭のなかにおいて、友人関係において、また、村や町や国家などの共同体において、おたがいに「うまを合わせていく方法」でありましょう。

その方法は『個人が生まれるまえからおこなわれていたもの』で、それを受け継いでいくことが「文化」だという。

が、誰もかれもが、その一般的な「生きかた」を受けついで、それ以上に出ないとすれば、その共同体はよどんだ水のように腐ってしまうでしょう。第一、それでは教養などというものの発生する余地はありません。一つの共同体には、おたがいが「うまを合わせていく方法」があると同時に、各個人は、この代々受けつがれてきた方法と、自分自身との間に、また別に「うまを合わせていく方法」をつくりださなければならないはずです。


これは「定義をあえて設けることでその定義を裏切ることが漫才」と同じことを言っているとも考えられる。

つまり、「漫才(という文化)の維持」において、連綿と続いてきた「文化」を受け継ぐことも大切だが、そこから誰も出ようとしなければ、「漫才」は「腐ってしまう」。
だから、その連綿と受け継がれた「漫才」を裏切ることにより、「(文化としての)漫才」と自分自身との間に、新たな「漫才」を作りだす必要がある
、と。


いうまでもなく、そのめいめいの方法が、個人の教養を形づくるのであります。一つの共同体(漫才)には、それに固有の一つの「生きかた」(文化的定義)があり、また一人の個人(漫才師)には、それ(文化的定義上の漫才)を受けつぎながら、しかもそれと対立する「生きかた」(漫才)がある。逆にいえば、共同体の「生きかた」(文化的定義上の漫才)を拒否しながら、それと合一する「生きかた」(漫才)があるのです。

(括弧内の言葉は引用者の補足)

故に、松本氏の定義に福田恆存の説を当て嵌めれば、自ずと、

芸人に教養は『必要』

という結論に達するのである。


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