芝居見物 ~舞台『酔いどれ天使』、舞台『近松心中物語』~

ずいぶん昔、私が田舎から上京して「観劇」にハマり出した頃、演目は忘れてしまったが明治座にお芝居を観に行ったことがある。
まだ「小劇場ブーム」が残っていた頃で、そういった舞台を観ていた私が何故明治座に行ったのか、今となっては演目も含め記憶にないのだが、その時私は、『これが世に聞く「芝居見物」というものなのか!』と感激したのは覚えている。

観客の多くは相応の「余所行き」の格好をした年配の男女で、着物姿の女性グループも多く見かけた。
30分以上という長い幕間を利用し、観客は劇場内のレストランで食事をしたり、これまた劇場内にある土産物屋でアクセサリやお菓子を物色していたりと、芝居と同じかそれ以上のテンションで楽しんでいる。
まだ若く金もなく、それ以上に「粋な楽しみ方」を知らなかった私は、すごく場違いな所に来た気がして、30分の幕間が1時間にも感じてしまった。

しかし、心に残ったのはそれではなく、「誰々がカッコ良かった」だの「誰々の衣装が綺麗だった」だのと芝居の内容とは関係のないことで盛り上がっていた着物を着た年配の女性たちが、口々に「あゝ幸せ」とか「たまにはこんな贅沢をしなきゃね」と言い合っていたことだ。

そう、芝居を観るのに難しいことを考える必要などないのだ。
目の前のお芝居を純粋に楽しみ、声を出して笑い、目頭にハンカチを当てて鼻をすすりながら泣いて、美男美女の役者陣に胸ときめかせ、華麗な衣装にウットリして、「あゝ幸せ」とか「良かったわねぇ~」などと言い合いながら劇場を後にして、銀座あたりで少し贅沢な食事をして帰る…
これこそ、真っ当な「芝居見物」だ。
私も年を取ったら、こんな風に芝居を楽しみたい。
心底そう思った。
この経験は以降、私の観劇スタイルの礎になっている。


舞台『酔いどれ天使』

と、長々前置きを書いたのは、久しぶりに明治座に行ったからであり、久しぶりに『相応の「余所行き」の格好をした年配の男女』という観客を多く見かけたからである。

演目は「世界のクロサワ」こと黒沢明監督と「世界のミフネ」こと三船敏郎が初タッグを組んだ名作映画『酔いどれ天使』を舞台化(蓬莱竜太・脚本、三池崇史・演出)したものである。

戦後間もなくの時代、闇市が乱立する東京。
闇市のシマを取り仕切るヤクザ・松永(桐谷健太)と、腕は確かだが酒びたりで落ちぶれてしまった医師・真田(高橋克典)の物語である。

名作映画の舞台化だからストーリーを知っている人も多いだろうが、物語自体がとてもシンプルだから初見でも十分理解できる。

物語は、敵対するヤクザに撃たれた松永が、真田の病院を訪れるところから始まる。渋々治療した真田は松永が結核であることに気づき、医者と患者の関係が始まる。
以降、松永と真田の関係を軸に、シマを巡る権力抗争や女性たちとの関係などが絡みながら進み、松永が結核ではなく自身の信念によって命を落としたところで、物語は終わる。


ヤクザとして闇市を取り仕切る男の野心と、しかし結核でそれが成し遂げられないと悟ったときの絶望感、故郷に帰る勇気が持てない自身の弱さ…
桐谷健太が、松永を単にカッコ良いヤクザではなく、そういった複雑な感情を持つ男として観客にちゃんと伝わるような熱演で魅了する。
自身の弱さゆえ酒に溺れてしまうが、心の底にある医者としての熱い矜持から松永を心配し、また、美代(田畑智子)への淡い愛情も抱く真田を高橋が好演する。
仁義なき権力抗争、その敵として立ちはだかる岡田を高嶋政宏が狂気と殺気たっぷりに演じる。
そして、華やかな女性とけなげな女性を、それぞれ篠田麻里子と佐々木希が演じる。

まさに、「芝居見物」だ。
私は、ただ物語に身を委ね、カッコ良い男たちと美しい女性たちが熱く繰り広げる舞台を楽しんだ。

しかし、一人で観劇した私は「良かったね」と言い合う相手もおらず、銀座あたりで少し贅沢な食事…もせず、すぐさま横浜へと向かった。


舞台『近松心中物語』

向かった先は、横浜中華街や山下公園に近い「KAAT 神奈川芸術劇場」。
それにしても、東京及びその周辺都市の交通網の発達は目を見張るものがある。明治座に近い人形町駅を出発し、わずか1時間、たった1回の乗り換えでKAAT最寄りの元町・中華街駅に着いてしまうのだ。

KAATホールで観たのは、1979年の初演以来、故・蜷川幸雄演出にて実に1000回以上上演された名作『近松心中物語』(秋元松代・作)である。

その初演を観た演劇ジャーナリストの故・扇田昭彦氏は、後に振り返ってこう記している。

蜷川幸雄が1979年2月、ベテラン劇作家の秋元松代と組んで帝国劇場で演出した『近松心中物語』を観た日の驚きと感銘はいまも忘れることができない。それはさまざまな点で画期的な舞台だった

(扇田昭彦遺稿集『こんな舞台を観てきた 扇田昭彦の日本現代演劇五〇年史』
(河出書房新社、2015年))

そして同書の中で、後年に秋元松代が語ったコメントを紹介している。
『蜷川さんが成功する芝居を書けるのは私だけだと思ったんです。だから、さあっと一気に書きました。これは絶対当たると思っていましたね』

つまり、この作品は秋元が蜷川に宛てたものだった。
そして秋元の読みどおり作品は当たり、上述のとおり蜷川演出で1000回以上上演され、蜷川亡き後も幾人もの演出家によって上演され続けている。

今回、そんな作品に挑んだのは、今年(2021年)同劇場の芸術監督に就任したばかりの、演出家・俳優の長塚圭史氏である。

物語は江戸時代の芝居小屋から定番として受け継がれてきた「心中もの」。
こちらもまさに「芝居見物」。明治座と同様、観客は年配の男女が目立つ。

堅物の商人・忠兵衛(田中哲司)と遊女・梅川(笹本玲奈)が互いに運命的な一目惚れをし、道ならぬ恋路の果て心中を遂げる(梅川忠兵衛)。
しかし、この作品は伝統的な切ないラブストーリー(だけ)ではない。
一見幸せそうな与兵衛(松田龍平)・お亀(石橋静河)夫婦が、巻き込まれる形で何故か心中へ突き進んでしまうという、ある意味での不条理喜劇が対照的に描かれているのだ(お亀与兵衛。しかも心中へ突き進むきっかけを作ったはずの与兵衛だけが生き残ってしまうという不条理さ)。

主役の忠兵衛を演じる田中哲司は、膨大なセリフ量と熱量で話題となった長塚演出『浮標(ぶい)』を彷彿させる熱演で梅川との悲恋を突き進む。
梅川の身請け話を阻止するため店の金に手を付けてしまう忠兵衛は、ただ梅川と一緒になりたいという己の欲望を満たしたかったわけではなく、「一緒になれなければ死ぬ」と思い詰める梅川を生かしたかったのだ。
この恋への一途な情念を、少ないセリフの中で表現した笹本の演技力も素晴らしい。
梅川忠兵衛は、互いに相手には生きていて欲しいと願いながらも、どうにもならないことを悟り、心中を決意する。
情を断ち切るように梅川の名を絶叫しながら腰紐で梅川の首を絞め、その後自分の首を掻っ切って自害する忠兵衛の姿に観客は息を呑み、二人の切ない純愛の結末に涙する。

対するお亀与兵衛は、先述の扇田氏の表現を借りれば『ズッコケ組』だ。
お亀の与兵衛に対する愛情は、「一途」というよりは「好き過ぎる」という今風の例えがピッタリで、それを石橋静河が天真爛漫に愛らしく演じ、観客をほのぼのさせる。
だが何と言っても観客の笑いを全てかっさらった与兵衛役の松田龍平の演技が素晴らしい。もう、演技なのか素なのかすら区別がつかない。
お人好しで少し間が抜けている与兵衛は、女房のお亀に逆らえず、同居する店の主人の妻でお亀の叔母にはキツく怒られてばかり。
心中の際も、何の関係もない女房は死に、忠兵衛に手付金を貸したことにより共犯扱いされた(だから「夫婦で死ぬしかない」という結論に至ったわけだが)与兵衛は死にきれなかったという間抜けぶり。
そんなだらしなくて、でも憎めない与兵衛が松田龍平という「得体の知れない役者」にピッタリはまり、観客は与兵衛の間抜けぶりに終始笑ってしまう(本当に、与兵衛が「はぁ…」と生返事しただけでも笑いが起こる)。

まさに、「芝居見物」だ。
私は、ただ物語に身を委ね、お亀与兵衛の心中に向かう割にはほのぼのした愛らしさに頬を緩め、梅川忠兵衛の悲恋に胸を抉られるような切なさを感じ、吹雪の中での心中というクライマックスに涙した…

劇場を出た観客は皆、「あ~泣けたねぇ」なんて言いながらも、幸せそうな表情だった。
言い合う相手がいない私は、心の中で「あ~幸せな一日だった…」と呟きながら、駅へと向かった。


余談:『酔いどれ天使』雑記

「難しいことなど考えず、ただ楽しめば良い」などと書いたが、『酔いどれ天使』に関して、思ったことを書いておく。
なお、これは原作映画未見の私の個人的な感想である。

この作品、タイトルからもわかるとおり、当初は志村喬演じる真田が主役の予定だった。
パンフレットに掲載されたコラムによると、映画のために闇市を取材した脚本家の植草圭之助は『やくざ者の青年に興味を引かれ』『やくざの青年と街娼の少女が心中するストーリー』を提案したが、黒澤監督は『あくまでやくざは批判的に描かなければならないと拒否』。
脚本作りは難航するが、やがて『取材で訪れた闇市で出会った、街娼たちを診察する無免許の闇医者』を思い出し、彼をモデルにした真田を主人公に据えることにしたという。

しかし、映画には(嬉しい?)誤算が待っていた。それが松永役の黒澤映画初出演・三船敏郎だった。

強烈な個性で観る者を惹きつける三船の演技は、必然的に松永を魅力的な存在にした。黒澤は、主人公の真田を演じる志村喬とのバランスに苦心するが、バランスのために三船の魅力を殺すのは惜しいと考えるようになる。

完成した映画について黒澤監督は、自著『蝦蟇の油』(岩波書店)に『酔いどれ医者の志村さんも90点だが、相手の三船が120点だから、少し気の毒であった』と記している。

舞台版は、半ば「偶然の産物」としてできてしまった映画版の勢いに呑まれてしまい、物語を冷静に整理しきれなかったのではないか。
それを踏まえ、2つの点が気になった。

一つは、松永(=桐谷健太)を主役に据えつつ、しかし真田を脇役に落としきれなかったこと。
その結果、観客が物語に没入するために感情移入する人物が特定できなくなってしまったような気がする。
さらに、2幕で(設定上)別々の場所にいる松永と真田を舞台の上手と下手にそれぞれ配置し、交互に自身の心情を吐露する場面があるのだが、結局2人とも同じような主張をしており対比になっていなかった。そのため、「1つの人格が2人に分裂した」ような印象になり、観客はますますどちらを見れば良いのか迷うことになった(ような気がする)。

もう一つは、女性キャラクターの扱い。
現代の状況から『女性の言い分を混ぜたい』と脚本の蓬莱氏がコメントしているが、結局映画版を崩し切れず、それらを物語に融合させることができなかった。
そのため、(「シームレスに展開したい」という三池氏の要望への対処でもあるのか)場面転換中に各女性がモノローグで語るだけの、単なる「場つなぎ」の効果程度にしか機能しなかった(ような気がする)。

(脚本家の意図が観客に伝わらなくても物語自体に影響しないので)それはそれで構わないのだが、私が気になったのは、そのモノローグが「誰に向けられているか」である。
「場つなぎ」の説明セリフならそれに徹するべきだと思うのだが、途中、佐々木希演じるぎんが直前に演じられた松永のシーンについて、『今思えば、あの時…』といったセリフを言うのである。
『今思えば』とはつまり、「後に」「誰かに」話していることを示唆する言葉遣いであり、結果、従来の物語とは別の「時間・関係性」が導入され、新たな物語の発動を示唆させてしまった。
その物語とはたとえば、「後年、松永と真田のことを取材にきた映画の脚本家に話している」といったことである。
しかし、結局物語は時間を超えることなく、松永の死をもって終わる。

「芝居見物」なんだから、こういうつまらないツッコミは野暮だと思うのだが…


メモ

舞台『酔いどれ天使』
2021年9月11日 マチネ。@明治座

舞台『近松心中物語』
2021年9月11日 ソワレ。@KAAT 神奈川芸術劇場 ホール





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