舞台『首切り王子と愚かな女』

「言葉」とはとてもやっかいな物で人間はどれだけそれに翻弄される生き物なのかと、舞台『首切り王子と愚かな女』(蓬莱竜太作・演出。以下、本作)を観ながら、つくづく思った。


本作は井上芳雄主演ではあるがミュージカルではなく、「セリフ劇」、いや「言葉の芝居」である。
「ミュージカル界の貴公子」井上演じる主人公の王子・トルは、彼自身のイメージとは真逆の、母親である女王に命ぜられるまま国民の首を切る(切らせる)ことで「首切り王子」と恐れられている、残虐な男である。


井上の役柄からも推察できるとおり、本作の世界観を簡単に言えば「ダークファンタジー」ということになるだろう。
ただ、構成的には「ギリシャ演劇」に通じているように思える。

舞台には「コロス」風の人物たちが登場する。
また、舞台上、中央の舞台を取り囲むようにコの字形に配置された、透明のアクリル板で仕切られた個室風の「鏡前」から、待機中の俳優が芝居をみており、それが客席で半円状に取り囲まれた「古代ギリシャ舞台」を想起させる。

芝居は伊藤沙莉演じるヒロイン・ヴィリのモノローグで幕を開けるが、ここでは物語は始まらない。
すぐに首切りのシーンに移り、王子に命じられた兵士長ツトム(高橋努)が粛々と罪人の首を落としている。ツトムはまるで念仏を唱えるように、罪人に対する記憶・思い出を呟きながら、首を切る。

「コロス」になったヴィリがツトムに近づき、ツトムの呟きにそれとは全く異なった自身のセリフをかぶせることによって、物語が起動する。

なんとスリリングな始まりだろう!

芝居は、ほぼ「言葉」によって進められる。
「言葉」は時に役柄としてのセリフであり、時に「コロス」の言葉となる。
「言葉」は重なり、行き違い、すれ違う。

その過剰な「言葉」に登場人物たちは翻弄されてゆく。
彼ら/彼女らは、相手の「言葉」に翻弄されるばかりでなく、自身が発した「言葉」にも翻弄される。

本音とは違う「言葉」が口をついて出る。
本音の「言葉」が見つからないのかもしれない。いや、「言葉」とは本来そういうものなのかもしれない。
自分の気持ちを「言葉」で表そうとすればするほど、その「言葉」は自身の本音から遠ざかってゆく。にも関わらず、少しでも本音に近づこうと「言葉」を過剰に求め続ける。
その過剰な「言葉」は他人を誤解させるだけでなく、その「言葉」によって自身も傷つき、裏切られる。
ある者は自身の「言葉」に忠誠を立て、その「言葉」とともに死んでゆく。またある者は、生き残りたい一心で自身の「言葉」を簡単に裏切る。
王子は、自身に付けられた忌まわしき名前(「言葉」)の呪縛に憑りつかれ、自ら堕ちてゆく。

そして、過剰な「言葉」で埋め尽くされた物語は、やがて破滅へと向かう。

しかし、物語の中の「国」が破滅したのは、「言葉」が過剰だったからではない。
過剰だったのは城の中の「言葉」だけであり、それらは城内に反響してさらに膨張していくが城外に出ることはなく、「言葉」は市民に一切伝わらなかった。城外は「無言」だった。
「言葉」を発しない「国」に市民は苛立ち、不信感を持った。
不信感から発した市民の「言葉」を「国」は意味を汲み取ることもせず、ただただ市民が「言葉」を発したことに怒り、首切りという「行為」に及んだ。
やがて市民は、無力な「言葉」へのカウンターとして、「憎しみ」という強大な「感情」を生み出した。
だから、「国」は敗北し、破滅した。

「言葉」とはなんとやっかいな物で、人間はどれだけ「言葉」に翻弄される生き物なのだろうか…


それにしても……
蓬莱作品に疎い私の知識の範囲で言うと、彼の作品では強く生きる女性が多く描かれているが、しかし、そんな彼女たちの背後に、時代・社会、そしてそれらに翻弄されているが見え、それに翻弄されているようにも思える。
本作でも、ヴィリはもちろん、近衛騎士リーガン(太田緑ロランス)、王女ナリコ(入山法子)も結局、自立しているようでどこか男性に縋って(それが、たとえ「のし上がるために利用する男」であっても)生きていかざるを得ないことを半ば受け入れているような気がする。

とはいえ、たとえば『まほろば』(2009年)、『母と惑星について、および自転する女たちの記録』(2016年)といった女性だけが登場する芝居でも、背後に浮かび上がる男性は、「愚か」というほどあざとくはなく、単純に時代に翻弄されてしまう「間抜け」な生き物として描かれており、それは、男性である蓬莱氏が同性を描くときの「照れ」のようなものではないかと、勝手に想像しているのである。

(2021年6月26日 マチネ。@渋谷PARCO劇場)


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