不登校について
2021年春。一人の男子中学生YouTuberの「不登校宣言」が一部ネット界で話題になった…らしい。「らしい」、というのは私がSNSやインターネットに疎く、直接のやり取りを経験していないからで、だからこの件の是非についての発言はしない。
ただ、「学校に行かない」ことが自分の人生における選択肢の一つにできるというのは、50歳を超えた私の学生時代には考えられないことであり、時代の変化を感じたのは確かである。
私が学生時代には「不登校」という言葉は(たぶん)存在せず「登校拒否」と呼ばれ、学校に行かないことは「問題」「病気」であり、「登校拒否」になることは即ち「社会からのドロップアウト」を意味するというのが、世間一般のいわば「常識」だった。
これがやがて、「社会からのドロップアウト」ではなくなり、今回のように「自分で(積極的に)選択する」という認識に変化していくということだが、「自分で選択できること」イコール「良い事/正しい事」という価値観については、個人的に承服しかねる。
それは現時点において、「選択の結果」に明るいイメージを抱けないからだ。
ということで、「不登校」の変遷と問題について、貴戸理恵著『「コミュ障」の社会学』(青土社、2018年)から、「リスク社会と不登校」の章を引用しながら少し考えてみる。
なお、不登校については「苛め」などの外的要因も多く影響すると思われるが、本稿では扱わない。
また、引用中の太字部は、すべて引用者による。
「登校拒否」
1970年生まれの私が学生だったのは80年前後の数年だが、上述のとおり、その頃は「不登校」ではなく「登校拒否」と呼ばれており、「不良」などと同様の「問題児」として扱われていた。
こうした社会一般の認識は、登校拒否児本人やその保護者ら「当事者たち」に相当な「圧力」となる。
そのため当事者たちは「圧力」との闘いも強いられることになり、『「不登校のわが子」「不登校のわが身」を受容・肯定するために、「この社会」のあり方を根底から問わざるを得ないような状況を作り出した』。
こうして1980年代半ばから当事者たちや支援者・専門家たちによって、『不登校を否定する価値に異議を唱え、不登校の権利を主張する動きが展開されていった』。
その動きがまさに、件の男子中学生の言動とそっくり重なる。
つまり、『「愛想の尽きた学校」を辞めて「自分にあった生き方」を選ぶ』と主張することで、『「がまんするしかない」と受け入れている大多数を挑発して「本当にそうか?」と問いを突きつけ』たのだ。
そして、それに対する世間の反応も、概ね、今回と同じようなものだった。
「自己責任」
2021年に起きた男子中学生を発端とした「論争」は、約40年前の焼き写しのように見えるが、一周回っての論争は、まるっきりの「再現」とはならない。
2021年の論調は、明らかに1990年代~2000年代前半の社会の変容に大きく影響されている。
その結果、現在の「自己責任」の風潮が確立していくことになる。
「不登校という概念」の溶解
不登校児童がドロップアウトとは見做されなくなったのは、「(自己責任によって)以降の人生のすべてを引き受ける」ことになったからではなく、「ドロップアウトは、不登校経験者か否かに関わらず、誰にでも起きうる」社会になってしまったのが要因だ。
その結果、2000年代前後以降、『不登校の脱問題化が進むとともに、不登校運動の拠って立つ「制度対非制度」という足場が掘り崩され、方向性が見失われていく』ことになる。
21世紀、「不登校によるリスク」はなくなったのか?
見てきたように、新自由主義による「自己責任」と長引く不況により、不登校の脱問題化が進んだ。
しかし、現実的な「不登校によるリスク」もなくなったかと言えばそうではないことは、データによって示されている。
文部科学省の委託により「現代教育研究会」が実施した「不登校に関する実態調査(平成五年度不登校生徒追跡調査)」は、『中学三年時に不登校だった人のうち、22.8パーセントの人が、5年後の時点で「就学・就労ともにしていない」状態にあることを明らかにした』。
さらに、2011年の不登校の追跡調査(不登校生徒に関する追跡調査研究会 2014)も見てみる。
もちろん、これは単なるデータであり、件の男子中学生が該当するとは限らないし、彼以外の「不登校児」個々に当てはまるわけでもない。
しかし、データは「不登校によるリスク」を明確に示している。
2021年の「不登校論争」
私自身は冒頭でも少し触れたが、SNSは全くやっていないし、ネットニュースもあまり見ない。だから、今回の件の男子中学生の発言を発端としたやり取りも理解できていないのだが、漏れ伝わる範囲において、全体の論調は概ね以下のようなものではないかと想像する。
「自己責任」を持ち出されると思考停止に陥ってしまい、それ以上深い議論に発展しなくなってしまうし、それこそ本質的なことが漏れ落ちてしまう。
その「本質的なこと」は、貴戸の言葉を借りれば、こうなる。
その上で、男子中学生の発言を発端とした論争を、彼個人のキャラクターに依拠させず、「社会全体」として発展させていくべきなのかもしれない。特に、ネット上で発言力のある一部の人達は、男子中学生の「個人的問題」と「(不登校という)社会的問題」を深く考えずに同一視しているように思え、それに人々が思慮なく同調/応戦している気がする。
なぜそういう論調になるのか?
その結果、まさに件の男子中学生と父親の言動のとおり、『個々の不登校の子どもや親たちも、「不登校」というカテゴリーの共通性を焦点化するよりも、個人としての選択や努力を重視する態度に傾いてゆ』くことになる。
そういう当事者を含めた容認派は「多様化・個性化」を謳うが、結局は否定派同様「自己責任」という個人問題に矮小化されてしまい、「社会全体の問題」に拡大しない。
貴戸は言う。
そして、不登校が「個人の選択」であり「自己責任」という論調で、しかも共有なく進む議論は、最終的に当事者たち自身を傷つけることになるだろう。
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