舞台『ウェンディ&ピーターパン』

喪失体験を受け入れ立ち直っていくための心理的な過程を、精神医学者フロイトは「喪の仕事」と呼んだ。
立ち直るとは、「悲しみ」から逃げず向き合うことにより、喪失を受け入れて行くことにある。

舞台『ウェンディ&ピーターパン』(エラ・ヒクソン作、目黒条訳、ジョナサン・マンディ演出。以下、本作)は、末っ子・トムを失ったダーリング一家が「喪の仕事」を終える物語でもある。

ウェンディ(黒木華)(と2人の弟たち)は、ネバーランドでの様々な困難を乗り越えることで、その仕事を終える。


本作は、日本でも子どもたちに大人気で、ミュージカルでも上演されている『ピーターパン』(ジェイムズ・マシュー・バリー作)を、英国の劇作家エラ・ヒクソンがウェンディの視点から書き直し、2013年に初演された作品である。
「ウェンディの視点から書き直し」とは端的に言えば、「ピーターパン症候群」に対する「ウェンディ・ジレンマ」である。
パンフレットに掲載された山内マリコ氏の寄稿を引用する。

ウェンディはピーターパンにいざなわれ、ネバーランドへ行き、そこで弟たちと一緒になって遊んでいたわけではない。ピーターの仲間、ロストボーイズたちはウェンディを「女の子」として特別扱いする。彼らにとって女の子は、お母さんのジェンダーである。「ぼくたちの世話をしてくれる人」であり、「晩ごはんを作ってくれる人」以外の何物でもない。彼らは有無を言わさずウェンディに、「ぼくたちのお母さんになって!」と詰め寄る。「ぼくらがほしいのは、やさしい、お母さんらしい人なんだ」。
そしてウェンディは、ピーターやロストボーイズの期待に応え、喜々として母親ぶる。自分のお母さんがそうしていたように、子供たちが寝静まったあと、一人夜更かしして、男の子たちが破いた服の縫い物に励む。ウェンディだって子供なのに! これじゃあまるで、女の子には子供でいる権利がないみたいだ。

「ウェンディ・ジレンマ」の側面から書き直したとはいえ、エラ・ヒクソンはきっと原作好きなのだろう、大胆な改変でなく、ストーリーは原作に忠実だ。
従って本作は、原作を補完・補強していると同時に、原作好きがお気に入り(だろう)シーンがそのまま生かされている。
ということで、以前「ミュージカル「ピーターパン」~祝40周年!~」という拙稿を書いたことのある私は、純粋に大喜びしながら観劇したのだ。

だから、メンドクサイ話はここまでにして、あくまでファン目線で感想の羅列していこうと思う。なので、本稿は本作の紹介でも批評でもない。
なお、以降、日本で上演されているミュージカル『ピーターパン』を「日本版」と表記する。


まず面白かったのが、ミスター・ダーリング(堤真一)が子ども好きで少年ぽく描かれている点だ。子ども部屋で子どもたちと一緒に無邪気にはしゃぎ、苦い薬が嫌いで、子どもたちのお手本にならない父親。
「パパが薬を飲んでよ!」と子どもたちから詰め寄られるシーンは、あまり日本版で見ることができないが、古田新太氏が演じた年(1998-99年)には、確かそのシーンがあった。薬を飲むフリだけして子どもたちに突っ込まれる父親をコミカルに演じていた。
ちなみに、日本版は寝る前に薬を飲む理由も説明されないが、本作では「トムを失く(亡く)しているため」ということが示唆されている。


本作、とにかくティンカーベル(富田望生)が魅力的で、超クールだ。
日本版でもティンクを俳優が演じたことはあるし、そうでなくても、ティンクは「妖精」のイメージから外れて意地悪く描かれてはいるが、そこは子どもでもわかる程度の「ウェンディへの嫉妬」に収斂させている。
しかし、本作のティンクはピーターパン(中島裕翔)への恋心はもちろんだが、それ以前に、元々が皮肉屋である性格が前面に出ていて素敵だった。

ティンクに関しては、たぶん日本版ファン全員が喜んだであろう、弱ってしまった(日本版ではフック船長が仕込んだ毒薬をピーターの身代わりとなって飲む。本作では直接フック船長に刺される)ティンクを生き返らせるシーン。
私はこのシーンに遭遇した瞬間、感激のあまり、日本版以上に夢中で拍手してしまった。日本版では、子どもたちに交じってオヤジが拍手するのは結構恥ずかしいのだが、本作は大人ばかりなので遠慮する必要がなかった。


興味深かったのは、「ピーターが一度家に戻った」エピソードだ。
子ども部屋の窓は閉じられ、ベッドには知らない子どもが寝ている。お母さんとお父さんは幸せそうに笑い合っている…
日本版でも、このエピソードが出てきた事がある。
その時は、子守唄「遥かなるメロディー」をウェンディではなくピーターが歌った。
いずれの場合も子守唄が、ウェンディたちが家に帰るきっかけとなる。
日本版ではピーターが、家に戻ったときのエピソードを「帰る家がない(から、ネバーランドにいる)」とネガティブに受け止め、「君たちの両親だって君たちのことを忘れて幸せに暮らしているはず」と、ウェンディを引き留める口実に使われる。
しかし本作では、同じエピソードで彼は「自分がいなくなった悲しみを乗り越えて笑ってくれている(だから、自分はネバーランドにいられる)」と、全く逆の受け止め方をしている。


そういえば「キス」。
今年(2021年)の日本版では登場しなかった(作品世界の年齢設定を下げていた。従来大人が演じていたウェンディの娘ジェインが子役だったことからも明らか。ピーターとウェンディの関係は、純粋な「お父さんとお母さんごっこ」)が、ちゃんと出てきて嬉しかった。

そして、ダーリング夫人(石田ひかり)が「妖精の粉」を知っていたことも嬉しかった。
きっと彼女も幼い頃、空を飛ぶことができたのだ。
それは娘のウェンディに、やがてジェインに受け継がれていく。
「春の大掃除」はきっと、彼女の家系の女の子たちの仕事なのだ。


と書きながら、ダーリング夫人が「妖精の粉」に気づくことには、大事なメッセージが隠されているのではないかと思い至った。

本作、冒頭に書いたように、主にウェンディにとっての「喪の仕事」である。
妖精は「赤ん坊が初めて笑った時、その笑い声が弾けて」生まれるのだが、本作でもそれを踏襲した上、夜空の星は「悲しみの涙」で出来ていると説く。
『泣いているうちは星のままだけど、家族が笑うと星は消え、その星だった子どもがネバーランドへ降りてくる』
だから、『失く(亡く)なったトムに会いたければ、楽しいことを考えて笑え』と、ピーターはウェンディを励ますのだ。

ウェンディのポケットの中にあった指貫に「妖精の粉」を見つけたことは、ダーリング夫人にとって「亡くした最愛の息子が無事ネバーランドへ降りた」と知ることでもあったのだ。
そして同時に、家族が「笑顔を取り戻し」「喪の仕事を終えた」ことも。

こう考えてくると、ネバーランドは「死後の世界」とも思えてくる。
しかし主眼はそこでなく、あくまでも「残された生者側の喪の仕事」にある。
つまり、死者がネバーランドという「死後の世界」に来るためには、生者が死の悲しみを乗り越える必要があるのだ。
(で、日本の「死後の世界」感で考えると、閻魔大王の裁きによって、海賊になったりインディアンになったり…たまに裁きを間違えて、違うところに落とされたり…。まぁ、ある意味「四十九日」というのは、生者側の「喪の仕事の期間」でもあるので……なんてね)

そう考えると、家に戻るのはウェンディ姉弟の3人だけというのも合点がいく(日本版では、ピーター以外のロストボーイズ全員がダーリング家の子どもとして引き取られる)。
つまり、生きたままネバーランドに来てしまったウェンディ姉弟は、「ここはまだ、お前たちの来るところではない」と追い返されてしまう、ということなのではないか。


…ん?
メンドクサイ話をせず、「ファン目線で感想の羅列」をしたはずが、いつの間にかメンドクサイ話になっていた…


本作、プロジェクションマッピングなども多用し、音楽・照明も併せ、幻想的な雰囲気だった。
特に冒頭、ピーターパンとシャドウズ(「影」が一つじゃないことも衝撃的で「上手く作ったなぁ」と感心した)が、トムを連れて行くシーン(その直前の、暗転を利用したピーターの移動も含め)がとても印象的だった。

本作を観てしまった以上、来年も上演されるであろうミュージカル「ピーターパン」の観方がきっと変わるはずである。今からとても楽しみだ。

(2021年8月28日 ソワレ。@渋谷・オーチャードホール)


全然関係ないが、本作ラストのウェンディとダーリング夫人の海賊ごっこで、ダーリング夫人を演じる石田ひかりが木刀(?)の先を肩に乗せたポーズが、神林美智子…ではなく山崎勝利に見えて一人勝手に感激してしまった。それだけ石田ひかりのポーズがキマっていたのだ(飛龍伝94)。




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