どこでもいいからどこかへ行きたい

これを書いているのは 2020年の夏だが、pha著『どこでもいいからどこかへ行きたい』(幻冬舎文庫、以下本書)というタイトルは、今年の状況を踏まえてのものではないが、今の我々の気分にぴったりだと思う。
肝心の本書の内容だが、「旅に出て、様々な出会いを経験して、新しい自分を発見しよう」などといった旅礼賛ものとは全く違う。

旅先でも一切特別なことはしない。観光名所なんか一人で行ってもつまらない。景色なんか見ても2分で飽きる。一人で食事するときはできるだけ短時間で済ませたいので、土地の名物などは食べず、旅先でも普通に吉野家の牛丼とかを食べている。あとはマクドナルドで100円のドリンクを飲みながら持ってきた本を読んだりスマホでネットを見たりする。
要は普段家の近くでやっていることを別の場所でやっているだけなんだけど、僕にとってはそれで十分に楽しい。

(P6-P7)

著者は「旅に出て、何か特別な経験をしなければいけない」などとは考えていない。

多分、僕が旅に求めているのは珍しい経験や素晴らしい体験ではなく、単なる日常からの距離だけなのだ。

(P7) ※太字は引用者

2020年は、どこかに旅に出て「珍しい経験や素晴らしい体験」をすることが、かなり難しい。旅行が制限されている今、違う視点で「旅」を見直すことが必要なのではないか。
偶然とは言え、本書はその一助になっている。

近所を散歩してみる

感情が不安定なときはいつも外を歩くようにしている。
家の中で一人でものを考えているとネガティブな方向にしか行かないようなときでも、家から出て外の空気を吸うだけで少しだけ思考がましになる。

(P83)

近所を散歩するだけでも気分が紛れたり、新しい発見がある。著者は言う。

近所を歩くだけでいろいろな気づきがあるということを普段から感じていると、「新しいものを見たいとしても別に遠くに行く必要はない」とよく思う。

(P86)

古い家、新しい家、道端の鉢植えの花、崩れ落ちそうなアパート、工事中の新築の家がだんだんできていく様子、古びた中華料理屋、夜中にそびえ立つ中学校の校舎、自動販売機のボタンが一定の法則で点滅するところ、犬の散歩をする人、道を横切る猫、警官に問い詰められている人、電動自転車に乗る人、など、見知った道でも時間帯や季節や自分の精神状態によって見えるものは毎回変わる。
人間の視界は意外と狭くて、わりといろいろなものを見落としながら生きている。何年も住んでいる場所でも、普段入らない路地に何となく入るとこんな場所があったのかという気づきがあったりする。

(P86)

用のない駅で降りてみる

ときどきふらっと意味もなく電車に乗って、なんの用もない駅で降りてみるということをする。
特にその場所で何をするわけでもない。駅の周りを歩き回ったり、本屋で新刊の棚を眺めたり、100円ショップで日用品を買ったり、安いチェーン系のカフェでお茶でも飲んだりして、飽きてきたらまた電車に乗って帰る。

(P92)

普段、通勤や通学で通り過ぎるだけの駅。定期券だと途中下車も可能だが、実際に降りることはなかなかない。

電車を降りたらまず駅前にある地図を見て、「東口より西口のほうが栄えてそうだな」などと、街の構造を想像する。
そして歩き回る。知らない街の知らない駅前や知らない商店街を用もなく歩くのは楽しい。
「飲み屋街はこのへんで、買い物をするならこのへんか」とか、「この駅から1キロくらい離れた別の路線の駅までゆるく店が続いているんだな」とか、そんなことを確認しながらゆっくりと歩く。
(略)
スーツを着ている人間しかいないようなオフィス街の喫茶店にふらっと入るのが好きだ。周りがみんな仕事の話をしている中で、一人で安い飲み物をすすりながらスマホのゲームを黙々と遊んだりするのは楽しい。
人の少ない昼間の飲み屋街をぶらつくのが好きだ。夜は酔っぱらいや客引きがたくさんいてうっとうしいので近づきたくないエリアだけど、昼は静かでカラスくらいしかいないので落ち着いて歩くことができる。

(P94-P95)

こうして目的もなく知らない街を歩くだけで、非日常を感じることができる。そして、こうして普段降りない駅の周りを歩き回ることについて、著者はこう言う。

その場所に実際に行ってみないとわからない地理感覚がある。だから知らない土地に行くのは、そこに特別な何かがなかったとしても面白いのだ。

(P94)

昔住んでた場所に行ってみる

『同じ場所で生活し続けるのにすぐに飽きてしまう』著者は、『2、3年に一度くらい引っ越しをしている』という。
そんな著者は、以前住んでいた場所に行くこともあるという。

どんな場所も、引っ越すと懐かしく思える。だから昔住んでいた場所に行くのは好きだ。
昔住んでいた家の近くに用もなく行って、昔よく行っていた店に行ったり、昔よく歩いた道をぶらぶらするのは楽しい。歩いていると住んでいたその当時の記憶がいろいろと蘇ってくる。
昔よく行った公園や喫茶店でぼーっとしていると、一瞬自分はまだここに住んでいるんじゃないかという気分になってきたりする。でも、すぐに自分はもう別の場所に住んでるのだということを思い出す。
でもやっぱりちょっと気を抜くと、いつの間にか前の家に帰る道を歩いていたりする。だめだ。そこにはもう帰る家はないのに。もうあの場所は失われてしまったのだ。わざとそんなことを考えてちょっと寂しい気分になってみるのが好きだ。

(P223-P224)

観光地を巡ったり、特別な体験をするだけが「旅」ではない

「知らない横町の角を曲がれば、もう旅です」と明言を残したのは永六輔氏だが、本書の著者も同じような感覚なのかもしれない。
遠くへ行かなくても、「観光地」とか「名勝」と呼ばれるところに行かなくても、自分の意識で少し「日常からの距離」を離してみることによって「自分だけの旅」ができる。
そのことを本書は気づかせてくれる。
そして、著者は「旅」というものをこう考えている。

ただ、旅で一瞬だけ味わうことができる非日常のきらめきや、知らない街を歩いているときのワクワク感、旅からそういった気分を持ち帰ることで、また平凡な日常を少しだけやっていくことができる。そのために旅というものはあるのだろう。

(P99)

2020年夏、世界中が閉塞感や鬱屈を抱えている。
「日常からの距離」に気づき、そこに「きらめきやワクワク感」を見出しながら、「日常を少しだけやっていくこと」で何とか乗り切るしかないと思っている。

だから、少しだけ考え方を変えて、小規模な「自分だけの旅」に出ても良いのではないだろうか。
ただし、コロナと熱中症の対策は万全に。

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