舞台『物語なき、この世界。』

舞台『物語なき、この世界。』(三浦大輔作・演出。以下、本作)の序盤、主人公の一人・菅原(岡田将生)が、もう一人の主人公・今井(峯田和伸)に言う。
「一人ひとりが、自分の物語の主人公だ」

きっと正しい、正論だ。
だが、これをSNSにアップすると、「いいね」がいくつかもらえるか、あるいは「昔からある『名言』の一つ」みたいに言われて馬鹿にされるか。
いずれにしても、菅原の言葉を自分事として信じていないのは確かだ。

私は読んだことがないのではっきりはわからないが、「なろう系小説」というものがあって、それは「異世界の物語」なのだが『自分の生活は5年後、10年後も変わらない、すごいことなんて何も起きない』という「人生をそのまま反映させている」らしい。
「人生をそのまま反映させている」のなら異世界なんかに行く必要もないように思うが、それでは「物語」にならないと思っているのだろう。

これはつまり、「物語」には「特別な何かが起こる」必要があると思っているということなのではないか。

「特別な何か」とは、たとえば、こんなのはどうか?
「高校時代同級生だった、しかも全然親しくなかったヤツに、10年ぶりに新宿歌舞伎町で偶然再会した」

まだ弱いかもしれない。では、さらにこれではどうか?
「その再会は、最初『おっぱいパブ』だった。別々に店を出たのに街角の『喫煙所』でまた再会し、仕方がないので少し飲んでから別れたのに、また『風俗店』の待合室で出会ってしまう。さらにその店を出てからも会ってしまう」

こんな偶然が起こったとしたら、「今、自分は主人公として物語の世界にいる」と思えるだろうか?

いや、まだ弱いかもしれない。では、これはどうか?
「泥酔オヤジに絡まれた恋人を助けたら、泥酔オヤジが逆上して自分の首を絞めた。必死に振りほどいたら、その勢いで泥酔オヤジが倒れ、頭を打って流血したまま動かなくなった。絡まれた恐怖と今見た惨状に驚いてとっさに逃げた彼女を追いかけたら、結果的に自分も逃走したような状況になった。泥酔オヤジがどうなったのか、わからない」

本作の主人公 2人は、ここで「自分は今、物語の主人公だ」と自覚する。
だが、2人は戸惑う。何故なら、わからないからだ。
主人公になった自分は、この物語をどう生きるべきなのか?


「物語の主人公」は、「なる」のか「なってしまう」のか?
本作を観ながらずっと考えていて、ふと、いとうせいこう×奥泉光+渡部直己『文芸漫談 笑うブンガク入門』(集英社、2005年)を思い出した。

そこで、いとう氏がある時期小説が書けなくなったと告白している。
『意味のあることは書けなくなりました。エッセイなら書き飛ばせる「コップが落ちたので割れた」という文章でも、フィクションだと「ので」の部分が書けない。現実は「ので」で示すほど因果関係の通りがいいわけじゃない。「コップが割れた」ことは「割れた」ことであり、「コップが落ちた」ことは「落ちた」ことであり、ふたつはまったく別である』と言う。
それを聞いた奥泉氏が応える。

いとうさんは、物語を拒否しているんですよ。「コップが落ちたので割れました」というのは、物語なんです。単一の時間軸に沿った出来事の連鎖ですから。物語とはその連鎖を引き起こす「ので」のことであり、それがダメだということは、物語を受けつけない体になってしまっている。

奥泉氏の指摘どおり、物語が「出来事の連鎖」であるとすると、自らの働きかけにより「働きかけられたもの」が何かの「出来事」を引き起こすことによって、初めて「物語が発動する」ことになる。
つまり、働きかけた自分だけでは「物語」にならず、「働きかけた何かが反応する」ことにより、「物語」になってしまう、ということだ。

だから「物語の主人公になってしまった」本作の主人公 2人は、自分たちだけで物語が駆動できないことに気づいて、戸惑う。


「SNSやブログなどに書くネタがない」と言う人がいる…らしい。
ネタがなければ書かなければいいだけの話だと思うが、どうやら、そうもいかない…らしい。
そういう人は、「自分が主人公の物語」を書こうとしているのではないか。
だとすると、だから書けない
何故なら、「一人ひとりが、自分の物語の主人公だ」という正論の意味を、「物語の主人公になる・なれる」、つまり、「自分が行動を起こせば、それが物語になる」と誤解して、「自分目線」で物語を把握しようとしているからだ。だから、「自分の物語」に「特別な何か」を見出せると思ってしまう。

正論の本当の意味は「自分の物語の主人公にさせられている」であり、だから、「他人目線」で「自分の物語」を見なければいけないのではないか。とは言っても結局、「させられている物語」には自分が期待する「特別な何か」は存在しない(それ以前に、自分が期待するとおりに物語が進まない)わけだが…


『物語なき、この世界。』というタイトルは本作の内容を表していない。
それなりの「あらすじ」が書けるほどしっかりとした物語があり、何なら「オチ」だってちゃんとある。

では、「この世界にない物語」とは何か?

本作に登場する人物は皆、「物語」という言葉を持ち出し、「自分の物語」を語る。しかし、その「物語」はそれを語る彼/彼女の現実とはかけ離れている。だからこそ、彼/彼女は執拗に「自分の物語」に縋る。
縋るのは、彼/彼女の求める「物語」が「この世界」にないからで、何故ないのかといえば、「自分の物語は自分の働きかけで発動する」と誤解して、「働きかけたものの反応」を感じ取れない(取らない)からだ。

逆に、本来の「物語」の「主人公になってしまった」本作の主人公 2人は、それ故に、自分たちで「物語」をコントロールできない。

いずれの場合にせよ、この世界には「自分の物語」などないのだ。


そう考えると、星田英利演じる橋本浩二の不可解な行動も少し理解できる気がする。
彼は、自分が「悲劇の主人公」になっている物語の中にいると思っていた。
だから、ギャラ飲みOLに嫌われ、みっともない姿で元妻(寺島しのぶ)に「ヨリを戻したい」などと情けないセリフを吐き、陶酔してカラオケを熱唱することができた。
それは全て、自分は「可哀想な男」を完璧に演じている、という自己陶酔から取った(取れた)行動だった。
しかし、元妻(役名の名字は彼と同じ『橋本』)が反応したことで、「主人公にさせられている」、つまり、「ここから先、自分の都合で物語は展開しない」ことに気づいてしまった。
「主人公にさせられている物語」に身を委ねることは、「自分が主役になっている物語」を生きられなくなることを意味し、ヨリが戻る戻らないに関わらず、自分はもう「可哀想な男」を演じられず、(自己陶酔できる)「悲劇の主人公」ではいられない。
だから、彼は「悲劇の主人公」でいられる今、自らの意志で、「自分の物語」の結末を決めてしまおうと思った…のではないか(「自分の物語」を生きるためには、「出来事の連鎖」を断ち切る以外にない!)
そして、彼のその反応が、元妻を「物語の主人公」にさせてゆく…

(2021年7月13日。@渋谷シアターコクーン)


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