舞台『リボルバー~誰が[ゴッホ]を撃ち抜いたんだ?~』

『みなさんは、この話を信じますか?』

舞台『リボルバー~誰が[ゴッホ]を撃ち抜いたんだ?~』(原田マハ作、行定勲演出。以下、本作)の最終盤、我々観客は舞台上からそう問われる。

2018年、フランス・パリの小さなオークション会社に持ち込まれた、一丁の古いリボルバー(回転式拳銃)。弾丸を撃つこともできないほどに錆びついたそれは、ただの鉄くずでしかなく、オークションに掛けても値段などつかないだろう。
しかし、これが、名画「ひまわり」を描いた画家フィンセント・ファン・ゴッホが1890年、自ら命を絶った際に使われた銃だとしたら?
しかも、銃は、フィンセントと2ヶ月間共同生活を送ったポール・ゴーギャンの「妻」を名乗る女性の家系で代々受け継がれてきたのだという…

銃は本物なのか?
何故、フィンセントではなくゴーギャンの末裔が持っていたのか?
それが本物だとしたら、フィンセントの死は本当に自殺だったのか?

物語は、2018年と19世紀末のフランスを往還しながら、ゴッホとゴーギャンの研究者である日本人女性・高遠冴(北乃きい)が勤めるオークション会社の人々(相島一之、細田善彦)が、持ち込まれた銃の真相を追う形を取りながら、フィンセント(安田章大)と弟のテオ(大鶴佐助)、そしてゴーギャン(池内博之)の関係を紐解いていく。

とにかく、フィンセント役の安田章大(関ジャニ∞)が魅力的だ。
『タブロー! この胸にはタブローしかないんだ!』
全身全霊を自身の絵に注ぎ込む純粋さと、認められない(彼は生涯で1枚の絵しか売れなかったと言われている。彼が評価されたのは死後のことだ)焦りや迷いが交錯し、表情や言動はめまぐるしく変化する。
そのエキセントリックさを、安田自身が醸し出す愛嬌によってカバーし、「嫌なヤツだけど憎めない男」の魅力をたっぷり表現する。
しかし、彼が魅力的に映るのは、ゴーギャン役の池内が正面からどっしりと受け止めているが故のことである。
「役」ではなく「役者」として心の開き方に迷いがなく、だから、フィンセントが「ただのエキセントリックな変人」にならない。

2018年チームも素晴らしい。
オークション会社の社長を演じる相島一之は、ややお調子者で神妙になった客席の空気を和ませる。
冴役の北乃は、唯一19世紀末とアクセスできるが、謎に迫るストイックさで、その演劇的手法に説得力を与える。

リボルバーは回転式の弾倉に何発かの弾丸を込めることでき、発砲後に都度弾丸を込め直す必要がない。
発砲するたびに次の弾倉へ移り、やがて元の弾倉へ戻ってくる。
舞台も弾倉のごとく、次々とシーンが移り変わる。
やがて一巡し、オープニングの「ゴーギャンとひまわり」のシーンに戻ってくる。
そのときには、観客はゴーギャンの手に握られている銃が何なのか理解できている。

戻ってくるのは、ゴーギャンのシーンだけではない。
オープニング、オークションのシーンで我々はオークションの参加者に見立てられる。相島は軽妙に客席に向かって「競り」に参加するよう促す(値段などつかないだろう『ほぼ贋作』を無理やり買わせようとするシーンになっている)。
その時は、始まったばかりの芝居を観る観客の緊張を解く程度の「客席いじり」だとしか思わなかったが、最終盤、これが伏線だったことに気づく。

ある時点から、アタッシュケースに入れられた「リボルバー」が、いかなるシーンにおいても、舞台中央に置かれたままになる。

一巡して戻ってきた物語は、我々が、参加するオークション会場にいたことに気づかせてくれる。
つまり、オープニングでの相島は単なる「客席いじり」をしていたわけではない。
我々観客は、舞台中央に置かれた「リボルバー」に纏わる逸話をオークション会場で聞かされていたのだ。

そして、冴が、我々に問いかけてくる。
『みなさんは、この話を信じますか?』

結局、フィンセントもゴーギャンも、1世紀以上過去の人物であり、真相は闇の中だ。誰も真実には到達し得ない。
しかし、10万ユーロから始まった「競り」は、瞬く間に値を上げていく。それは、錆びたリボルバーという「モノ」ではなく、それが持つ「物語」の値段だ。

現代の高度化された資本主義では、「モノ」として有形の商品はもちろん、「サービス」という無形の商品も、綿密にコストを算出し、あらゆる角度から検討された価値と提供者の思惑に沿った「価格付け」がされ、それが客によって「評価」される。
しかし、世の中にはその順番が逆、つまり、「評価」が「価格」を決めることも多々あり、ある人にとっては大金をはたいてでも欲しいモノが別の人にとっては全く無価値だったりする。
「評価」は実際の機能性や有用性とは無関係である。消費者は「モノ」あるいは「サービス」に自身の「物語」を見出し、それを評価するのだ。
それは個人だけでなく、「世の中の空気」や「流行」によっても左右される。
たとえば、生前全く値がつかなかったのに没後高額で取引されるようになったフィンセントの絵…

眼前に置かれた「リボルバー」もまた然り。
私なら、そして、その場にいた観客たちなら、その「物語」をどう評価し、幾らの値をつけるだろうか?

つり上がっていくリボルバーの「価格」の喧騒の中で、私は「モノ」の「物語」の「価値」とは一体何か、何がこんなに熱狂させるのか考えていた。

(2021年7月17日 マチネ。@渋谷PARCO劇場)


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