舞台『フェイクスピア』

舞台『フェイクスピア』(野田秀樹作・演出。以下、本作)は、観客が良く笑う芝居だった。
白石加代子や橋爪功のコケティッシュな演技で、川平慈英や伊原剛志のコミカルな演技で、そして、野田秀樹の真骨頂でもあるダジャレにも似た言葉遊びで。

1時間を過ぎた頃、何度目かの「8月12日」というセリフを聞いて、私の笑いは止まった。
その時、一瞬にして『永遠+36年前』というセリフの『+36年』の意味に、と同時に、そしてあの「箱」が何なのか理解できてしまった。
理解出来てしまったら、もうそこは「恐山」ではない。
それに気づいた私は、止まった笑いの代わりに、震えが止まらなくなった。
その衝撃は、『奇跡の人』でヘレンケラーが「WATER」に感じた何かに近いのかもしれない。

私が震えた理由は2つ。
一つは、それまでの全ての芝居やセリフに一切の無駄がなく、全てが有機的に繋がっていることに気づいたから。
もう一つは、まだ周りの観客は笑っているが、やがてイタコ、ではなく野田秀樹が、あの「8月12日」を呼び寄せてしまうだろうことが恐ろしかったから。

私が書けるのはここまでだ。

最後の20分間を「ネタバレ」などと軽い言葉で説明することは簡単かもしれないが、私にはできない。
先にも書いたが、開演からそこに至るまで、一切の無駄がなく全てが有機的に繋がっているのだ。それはつまり、最後の20分間を書くためには、その前の1時間40分を「ちゃんと」説明しなければならないことを意味する。
私にはできない。

それに、劇中で野田が「星の王子様」(前田敦子)に言わせているではないか。
「大切なものは目に見えない」と。
簡単に「ネタバレ」などと、「目に見えた」ものをツラツラと書き連ねたところで、そこに「見えない大切なもの」が書かれているとは思えない(「大切なものは目に見えない」というセリフの意味すら見えていない!)。


代わりに「ネタバレ」じゃなく、私の思ったことを書くことにする。

先に「星の王子様」を出したので、それから。

50年間イタコの試験に落ち続けている白石加代子演じる皆来みならいアタイの同級生として橋爪功演じるたのは登場するが、途中で子ども還りしてしまう。つまり、老年になった楽にも子どもだった時代がある、ということであり、そのことを忘れていない、ということでもある。

サンテックス(サン=テグジュペリ)は、孤独を愛した詩人であり、大空の冒険家であり、子供の心をもった童話作家であった。サンテックスの『星の王子様』(内藤濯訳、岩波書店)は、次のような言葉とともに「子どもだったころ」の親友レオン・ウェルトに捧げられている。

おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)

竹内薫+竹内さなみ著『シュレディンガーの哲学する猫』(中公文庫、2008年)

『星の王子様』は、操縦士である「ぼく」が、「山」ではなくサハラ砂漠に不時着したところから始まる。
これは1935年にサンテックス自身がサハラ砂漠に不時着した実話が基になっているのは有名な話だが、しかし、大事なのはそこではない。

トニオの操縦する双発飛行機ブルゲ14号は、ぶぅ~んとかすかなうなり声をたてながら、夜のしじまを、スケートのように音もなく滑ってゆく。
トニオ、またの名をアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ。由緒ある仏蘭西フランス貴族の末裔で、飛行家で、行動主義の作家でもあった。(略)第二次世界大戦の末期、単身、フランス本土の偵察飛行に出かけ、地中海上空で消息を絶った。コート・ダジュール沖でドイツ軍の戦闘機に撃墜されたのだという。

(同上)

それは1944年7月31日のことであり、「8月12日」ではない。
しかし、本作に「星の王子様」が登場するのは「必然」なのだ。
それは楽の親としてのmono(高橋一生)と、「星の王子様」の親としてのサンテックス、という意味で。


と書きながら、ふと、「何故イタコたちは目隠しをして見えないようにしていたのだろう?」という関係ない思いが過った。
たぶん、飛行機のエマージェンシー中、客室の照明は消えていただろうからだ(ちょっと検索しただけでは、ズバリの答えは見つけられなかったが、『夜間の離陸時に客室の照明が消えるのは、離陸態勢中に起きやすい事故に備えるため』というのが出てきた。何でも『明るい客室からいきなり暗い屋外へ放り出されると暗闇に目が慣れなくて、すぐに行動できないから』だそうである)。
そして乗客全員、「頭を下げて」いたのである。その状況下、乗客たちは恐怖で目を閉じていたことだろう。それは「イタコの目隠し」と同じ状態だ。
イタコの試験で劇場が真っ暗になった際、「伝説のイタコ」(前田敦子)の周りでいくつか電球らしきものが光っていたのは、CA(たぶん当時は「スチュワーデス」と呼ばれていたであろう)が操作する機器のランプに見立てられていたのだろう(つまり、「イタコの試験」中に、「伝説のイタコ」を始めとしたイタコたち全員が「8月12日の機内」を呼び寄せてしまった「事故」なのだ)。


「見立て」といえば以前、『舞台「未練の幽霊と怪物『挫波』『敦賀』」を観て思った取り留めのないこと…(感想に非ず)』という拙稿で、野田秀樹の「見立て」について書いたことがある。
その拙稿では、「能」、特に「夢幻能」というジャンルについても書いている。
「夢幻能」は、『ゆかりのある場所に出現した霊魂(シテ)が、自らの過去を旅僧(ワキ)に語るという基本構想のもと、非業な死を遂げた人物を取りあげ、「過去」を「今」に呼び戻し、現前化する手法』であるが、本作にもこれが当てはまる。
ワキが楽、シテがmono。
そのmonoが、大切にしている「モノとしてのハコ」が「8月12日の機内」に見立てられる。
つまり、野田は「夢幻能」のフォーマットを借りて「目に見えない」はずの「大切なもの」を、観客の目に見えるように現出させるのである。
と、わかったように書いているが、舞台は「恐山」であり、『ゆかりの場所』ではない。
だからこれは、『フェイクスピア』によって書かれたものに違いない。


話変わって…
本作では「白いカラス」(前田敦子)が登場するが、この烏について野田はパンフレットにこう綴っている。

うん?一本足りないよね。目をこすったり、文字に近づいたりして、「じゃないね、カラスだね」とこちらに敢えて確認させる。
そういうことなのである。
ではないのである」
(略)
何故見ているのだろう?カラスは何が気になっているのだろう?
もはや私の身勝手な邪推である。は、たった一本の「横棒の線」を失ったばかりにになれなかった「不完全な存在」である。だからこちらを見ているのだ。烏は、敵意をむき出しにしてこちらを見ているのではない。「親近感」である。人間も、横棒が一本足りないような「不完全な存在」であると知っているから、人間のことが気になって気になって仕方ないのだ。
(※太字、引用者)

「一本足りない」のは「男の肋骨」である。
旧約聖書、創世記第二章第22項には、『女は男の肋骨の一本をとってつくられた』と書いている。
肋骨が一本足りない男が不完全なのはもちろんだが、それからつくられた女も、それ故、不完全である。
もっとも、『女は男の肋骨の一本をとってつくられた』というのも誤訳フェイクという説もある。


ちなみに先に引用したパンフレットの野田の言葉。その直後にこう書いてある。

「人間は」、本当は「人」ではなく「人」だったのである。
(※太字、引用者)

「人は問う生き物である」
シェイクスピアの『ハムレット』だって、自身に問うのである。
『生きるべきか死ぬべきか』


本作ではタイトルどおりシェイクスピアの作品をベースにしているのだが、彼の有名な作品の一つが『ハムレット』であり、『マクベス』である。
妻の死を知らされたマクベスはこう言う。

何も今、死ななくてもいいものを。
そんな知らせには、もっとふさわしい時があっただろうに。

(ちくま文庫、松岡和子訳)

本作でイタコの皆来アタイは「8月12日18時56分28秒」を呼び出そうとしている。
やがて夜が来て、機内で人々は眠りにつくはずだった。だが…

「マクベスは眠りを殺した」
「マクベスはもう眠れない!」

(同上)


…おっと、私が冒頭に出した『奇跡の人』。
「WATER」のシーンで感動するのは、ヘレンケラーが「言葉」を理解したからではない。
ヘレンが理解したのは、「物には名前=言葉があり、その名前=言葉で世界は出来ている」ということだ。


…これらは私がイタコの口寄せよろしく、頭に降りて来たものを書き留めただけの「フェイク」だ。


そういえば、今年は私が応援する阪神タイガースが強い。本作を観劇した2021年7月9日は、2位 ジャイアンツとの直接対決を制し、一時期縮められたゲーム差を 3.5にした。
「阪神が優勝する年は、何か大きな事件が起きるんだよね」と昔、ジャイアンツファンの同僚にイジられまくったことを思い出した。
2021年、このままタイガースが優勝してしまうかもしれない。
かもしれないではなく、是非とも優勝して欲しい!
大きな事件…………これ以上は不謹慎だから止めておこう。

(2021年7月9日。@東京芸術劇場プレイハウス)


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