安部公房2作~舞台『友達』、ケムリ研究室 舞台『砂の女』~

2021年9月。
偶然にも、東京で安部公房の作品2作が同時期に上演されていた。

一つは、三軒茶屋・シアタートラムでの、ナイロン100℃主宰のケラリーノ・サンドロヴィッチ(KERA)と女優・緒川たまきのユニット「ケムリ研究室」の『砂の女』(ケラリーノ・サンドロヴィッチ上演台本・演出)。

もう一作は、初台・新国立劇場 小劇場での『友達』(加藤拓也演出・上演台本)。

私は安部公房の作品に疎く、彼の作品が「不条理劇」と呼ばれている、という程度の知識しかない。
そんな私にとって、両作品がKERA氏、加藤氏が手を入れた「アレンジ版」になっていたことは、オリジナルと比較する必要がない点で助かったと言える。

とはいえ、「不条理劇」の内容を説明する(しかも言葉で)ことは、できない。それは、両物語が共に「~という設定」を持たないからだ。

物語の大枠だけ書くと、『砂の女』は東京から趣味の昆虫採集に来た教師である「男」(仲村トオル)が「砂に囲まれた家々」でできた村の、独り暮らしの「女」(緒川たまき)の家に幽閉される話。

『友達』は、独身の「K」(鈴木浩介)の部屋に突然、見知らぬ9人家族(山崎一、キムラ緑子、林遣都、岩男海史、大窪人衛、富山えり子、有村架純、伊原六花、浅野和之)が押しかけて来て自分たちの家であるかのように振る舞い、正当な住人である「K」を支配していく話。

どちらも主人公は男性だが、前者は主人公が不条理の世界に「連れてこられる」のに対し、後者は不条理の世界が「やって来る」。
物語は主人公が突然不条理の世界に巻き込まれ、最初は抵抗・反発するが徐々に受け入れ、従順になっていく(「不条理劇」の必然として、両者ともその明確な理由は描かれない)ように進む。


「~という設定」がない、と書いたが、そもそも不条理物語は「ない、ということを明らかにしていく」ものである。

わかりやすいのは、『友達』だ。
この作品は、上述のように若手からベテランまで15人の出演者の大多数が、観劇経験のない一般の人でも名前を知っている役者だ。
そのせいもあるのか、「不条理劇」に縁がなさそうな観客も多かったようで、序盤は結構笑いが起きていたが、物語が進むにつれ笑い声は少なくなった。

面白くなかったわけではない。きっと怖くなったのだ。
それは「~という設定」が理解できなかったからではなく(その場合は、「わからない」という感想になる)、そもそも「~という設定」が存在しないことがわかっていくからだ。

『友達』の序盤で観客が笑ったのは、物語を『「独り暮らしの男の部屋に見知らぬ家族(しかも9人!)が居ついてしまう」という設定』で理解しようとしていたからである。
これはコント芸人の「笑い」に通ずる。
コント芸人はセットや衣装とともに「つかみ」のセリフで「設定」を説明する。
たとえば、教室のセットで学ランを着た人物が「先輩、遅いな」と呟いただけで、観客は即座に「設定」を理解するが、それが可能なのは「設定がある」ことを前提としているからであり、その「設定」と「人物の行為」のズレが笑いに転じる。

『友達』の序盤も同じで、観客が想定した設定の中で家族が自由に振る舞い、それに「K」が乗せられてしまうことで、笑いが発生する(この場合は、「突飛な設定」の中でありきたりの日常会話が成立し、「K」が翻弄されていくことに対する笑い)。

笑いが消えるのは、「K」の通報により、警官(長友郁真、手塚祐介)と部屋(マンション?)の管理人(鷲尾真知子)が登場してきたあたりからだ。

何も盗まれていない、暴力も振るわれていない、家族が部屋にいるのは「K」が自らの意志で部屋のドアを開けたからであり、家族が「K」を「友達」であり「知らない人ではない」と言うのに対し「K」が反論できない(直前に出会ったばかりだとはいえ、この時点では出会ってしまっているので「知らない人ではない」のは間違いないから)という「客観的事実」により、「K」は「家族に不法侵入・占拠されている被害」を立証できない。

この状況において、先述した「ない、ということを明らかにしていく」不条理物語が発動し始め、「突飛な設定」という観客の想定が揺らぎ始める。

不条理物語は、「K」と彼の婚約者「S」(西尾まり)のデートに、「K」ではなく林遣都演じる家族の長男が出向いてしまうシーンで追い打ちをかける。
デートに「K」ではなく見知らぬ男が来たことと、デートに先駆けて電話した際に複数の女性の声が聞こえていたことを訝しんだ「S」は、長男を問い質す。
不審がる「S」は自ら「K」の浮気を断定してしまうかのような誘導尋問を長男に浴びせ、長男は余計な事や嘘は言わずに答えているだけなのだが、「S」は勝手に激昂し婚約を破棄してしまう。

「S」が明らかに誤解していることを知っている観客は、ここに至り彼女に自分を重ね、「自分が想定した設定は誤解なのではないか」と疑う。
観客は「正解の設定」を求めるが、それは最後まで提示されない。
不条理劇は「設定がない」のだから当然であるが、特に「設定があることが前提」の笑い/物語に慣れている現代人にとっては、「理解できない」以前に「そもそも理解するような設定がない」のは恐怖でしかない。
だから、面白いのに笑えない、怖いのである。
さらにその怖さは、自身の「現実(リアル)」にまで及ぶ。結局のところ、「現実」も絶対的根拠がない「~という設定」で構築されており、容易に崩れてしまうのだ。


何故「~という設定」ということを考えたかというと、『友達』の前に『砂の女』を観たからだ。

不条理な幽閉への抗議の意味で「男」は「砂かき」をボイコットするが、「義務の放棄」の当然の帰結として、報酬(水、食料の配給)が得られなくなる。
喉の渇きに苦しんだ「男」は雨音の幻聴を聞く。「雨が降ってきた」と喜んで外に出た「男」は、追ってきた「女」に「降ってませんよ!」と突っ込まれ部屋に戻る、というシーンを数度、同じセリフ、同じ演技、同じテンションで淡々と繰り返す。

このシーンが理屈抜きでべらぼうに面白いのだが、何か違和感があって、それを考えていたのだ。

この繰り返しに「~という設定」がないのだ。「設定」がないから、当然「意味」もなく、だからズラせないし、外せないし、壊せない。
特に、最近のコントでは、繰り返しに「設定」「意味」がある。
たとえば、誰かが繰り返していることに気づき突っ込む→繰り返し前に戻る際に誰かが「今度はちゃんとやれよ」などと注意を促す→気を取り直して再開するがやっぱり繰り返してしまう→誰かがキレる…、とか、あるいは逆に、繰り返しの中にちょっとだけ前回と違う仕草やセリフが入る…、とか「繰り返している設定」という「意味」が生じ、それが笑いにつながる。

しかし、『砂の女』のシーンは、この「設定」がない。
つまりこれが、「ナンセンス」というものなのか。
…ということが引っ掛かって頭の隅に残っていたから、同じ安部公房つながりの『友達』で、それを想起してしまったのだろう。


さて…
この2021年というタイミングで安部公房作品が2作上演されるのは、偶然なのだろうが必然でもあるような気がする。
と、こじつけてみると、両作とも「コロナ禍」と「SNSに代表されるネット世界」が想起される。

「コロナ」は、突然押しかけてきて(もしくはそういう世界に放り込まれて)、「マスク」だの「自粛」だのと理不尽を要求され、デートの食事も目の前の恋人と透明のアクリル板越しに会話するなどといった、「ナンセンスギャグ」に出てきそうなシチュエーションをリアルで強要され(新国立劇場の各座席も仕切られていた!)、それに嫌々従っているうちに、いつの間にか当たり前に受け入れている自分に気付く、というのは両作そのものだ。
(「要請」なのに強制的に従わされ、従わないと(国家権力により)罰を受ける、というのも不条理である)

『砂の女』の主人公は住民に「泊まれる宿」を聞いただけ、『友達』は部屋の呼び鈴がなったのでドアを開けただけ、で不条理の世界に巻き込まれるというのは、「検索結果やSNSのメッセージをクリックしただけ」で世界中の理不尽に巻き込まれてしまう「ネット世界」を想起させる。

特に『友達』に関しては、パンフレットで出演者の山崎一が『(上演台本・演出の)加藤さんは(略)ネット世界の「炎上に」重ねたいという』と答えている。
山崎演じる家族の家長のセリフはそのままネット上の「論破」的言論に繋がる。つまり、今置かれている状況と関係ありなしに関わらず、相手の言葉尻につけ込んだ「正論」を持ち出すことで相手の否定を封じ込め、逆に「論破」に持ち込んでしまう。
また、家族が「民主的」と主張する「多数決での議決」で、「K」がどんなに正しくても「1対9」で負けてしまう姿は、タイムラインの「空気」による言論の支配や異質者の排除を想起させる。
その象徴的シーンが、異議を唱える「K」に対し、家族が「正義の発動」と称して暴力を振るう場面だ。


両作とも最終盤で主人公が不条理世界から脱出できる道が開けるが、両者とも自ら不条理世界に留まることを選択する。
ここまでは両作とも同じように見えるが、留まることを選択した理由は両者で異なり、それが物語の結末につながるのだが、個人的には『砂の女』の方が主人公の「留まる理由」が最後までぼやかされているという点で「不条理世界」を全うしたのではないかと思う。

対して、『友達』は主人公の理由が「条理に落ちた」感じがする(つまり、言葉で説明してしまい、それが物語として適切か否かとは関係なくその言葉だけで観客が納得できてしまうほどわかり易いものだった、ということ)。
そのため、物語がそこで終われず、有村架純演じる次女の不可解な行動をきっかけに「不条理世界」が消滅する結末となる。
結果、『友達』は最後のたった数分間で、それまでの「不条理物語」をちゃぶ台返しし、「不条理世界の消滅」というオチがついた、「次女の行動の謎」という含みを余韻に残すだけの、単なる「ミステリアスな物語」になってしまった気がする。
(冷静に考えれば、「K」の「留まる理由」は常軌を逸しており、それを「不条理」と呼ぶことは可能なのかもしれない。が、目の前で展開する芝居であのセリフを言われてしまうと、思考する前に感情で納得してしまい、その裏を読むことはほぼ不可能だろう)。

まぁ、「元々意味を持たない不条理」より、この「いかにも意味ありげ」な結末の方が、有名俳優目当ての観客が「芝居を観た」という気になるのかもしれない(個人的感想)。


おまけ:「友達」と別役実

安部公房と並んで「不条理劇」の代表作家といえば別役実だが、別役と安部が書いた『友達』には因縁がある(別役の方が一方的に)……らしい。
これについては、『友達』ではなく、何故か『砂の女』のパンフレットに載っている(KERAが別役のファンだというのもあるのかもしれない)。

KERA (略)余談ですけど、評論集『言葉への戦術』に、若き日の別役(実)さんが安部公房の『友達』について書いた文章が掲載されていて、「演劇が文学に奉仕するものではダメだ」と強烈な長文で糾弾しているんです。

その別役の糾弾は、同パンフレットの思考家・作家の佐々木敦の寄稿文で、こう解説されている。

いささか難解な書き方だが、「従来の演劇においては、ドラマに関する主動的な要素は形象が代表してそれを把握していたのであるが、不条理劇にあっては、そのフォルムが代表するのである」と(略)。そして『友達』は、この分類でいえば「日常的状況をあたかも極限的状況の如く展開」する「イヨネスコ風」の設定-状況から出発しながらも「しかし、そう考えて読み進めると、ここに期待されてしかるべき「不条理劇」としての演劇性がことごとく裏切られてゆくのである」と断じるのである。そして、なぜそうなるのかといえば、『友達』に書かれてあるものは、「演劇的直接性」を剥ぎ取られた「文学の演劇的展開に過ぎない」からだ、と。

この別役の主張について佐々木は、『言うまでもなく、ここには別役実の演劇人としての、劇作家としての矜持が、そしてそれゆえの「文学(者)」への違和感(反感?)が覗いている』と考察している。

とはいえ、別役は安部が嫌いで悪口を言っているわけではない。
この経緯について、早稲田大学演劇博物館 特別展『別役実のつくりかた-幻の処女戯曲からそよそよ族へ』(2021年5月17日~8月6日。@早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 特別展示室)の図録を引いてみる。

「ドラマツルギーの構築」と題され、いくつかの別役手書きのメモ(ノート)が掲載されているページの解説(文・岡室美奈子)によると、これらは別役が多大な影響を受けたとされるペケットに関するものだという。

このメモでは二枚の原稿用紙に、ペケット空間の構造や言語の分析、安部公房『友達』からの抜粋、アラバール『戦場のピクニック』への言及が見られることから、別役がペケットの劇構造を明らかにして独自のドラマツルギーに応用するために、安部公房やアラバールを同時に比較検討していたことがわかる。

評論「小劇場運動を振り返って」(初出『国際文化』1969年)には、『ゴドー』は「演劇的な『表情』を反演劇的な『構造』が裏切る」芝居であるという別役の発見が記されている。このノートは、その発見を踏まえて『友達』を検討しようとしていた(略)。しかし「我国には構造はなかった」という一文で締めくくられているように、別役は『友達』に対しては批判的だった。

などと、長々書いてきたが、今回の『友達』の上演台本は、安部自身による原作小説『闖入者』と、青年座の67年初演版、安部公房スタジオによる74年改訂版のテキストを基に、加藤が『自分のことと感じてもらえるよう現代口語に寄せて、小説の面白い部分も編集させていただきました』(朝日新聞インタビュー記事)。

だから、今回の『友達』について、別役が同じような批判をするかはわからない。
もちろん素人の私には構造を洞察する力などあるわけがなく、だから、別役の代弁もできない。

が、私が今回の『友達』の結末から感じたことは、『「演劇的直接性」を剥ぎ取られた「文学の演劇的展開に過ぎない」』であった、とは言えないだろうか?…なんてね…


メモ

ケムリ研究室 no.2 舞台『砂の女』
2021年9月4日 @シアタートラム

舞台『友達』
2021年9月8日 @新国立劇場 小劇場

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