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全ての始まりはここから

🗣 こんにちは、イノベーションプラス広報チームです。
この度noteにて弊社のことを発信していく「PLUS MAGAZINE」が本日より開始いたします!会社についてもっと知っていただけるように発信していきますのでよろしくお願いいたします!さて、記念すべき第一回目の記事は、広報チームの監修のもと、当社代表取締役の小坂に執筆していただきました!🎉ぜひ最後までご覧ください!

こんにちは、小坂です。
早速noteでの記事展開が始まるということなんですが、まずは皆さんにもっと会社について知ってもらうために、私がこのイノベーションプラスを創業するまでに経験した、懐かしい話や苦境から立ち直った話など、皆さんにまだ話したことのない裏話をお届けしようと思います!

イノベーションプラス代表取締役 小坂 武史

▼経歴

📚 イノベーションプラス代表取締役 小坂 武史
・1991年:AT&T Jens入社。インターネット黎明期より、日本初のインターネットプロバイダー事業を推進。
・1998年:Webクリエイティブ会社Digital Magic Labsにて、クリエイティブ事業、新規事業を担当。
・2002年:株式会社ティーケーラボを設立。「ひとにやさしいデジタルの創造」というコンセプトを掲げ、新規事業支援、人材開発支援を展開。
・2007年:企業の新規事業をコンサルティング、デザイン、システム構築・運用のトータルで支援する株式会社イノベーションプラスを設立し、DX事業を拡大。
・2017年:株式会社ティーケーラボの事業転換を行い、HRテクノロジーを屈指した人材開発・支援を専業とする。
・2022年:”ITに強い会社”から”事業創造Company”に発展。大企業から地域まで幅広く”DX”を支援し、国立大学の学生やパートナーと共に”地域創生・新産学連携”を拡げている。

▼会社の歯車にはなりたくないと思っていた就活時代

経営と工学の幅広い知識を習得したいという目的で東京理科大学工学部経営工学科(浅く広くこれでもかというくらいの科目を教える学部)で学んでいた青年は1990年の春、5年目にして研究室に入れる=卒業できる資格を得ました。 しかし、8年通う覚悟を決めていたので、就職活動には出遅れてしまいました。。
経営に近い、原価管理の片岡研究室(工学と一番遠い研究室で、後の経営学部の創設者)で「我が国企業の経営分析」という研究をした青年は、朧げに「経営企画」という就職をイメージしていました。そんな中、経営企画職を募集するAT&Tと出会います。総務省・興銀(現みずほコーポレート銀行)・富士通・日立・IBMからなる国際通信の合弁会社にAT&Tがマウントした外資系企業です。
「会社の歯車でなく、自分の考えを口にして、行動します!」
面接で気合の発言をしたら、見事合格!25名の同期と働くことになる。(決して、住宅手当、福利厚生が魅力的だからとは言えなかった。)


AT&T Jensに入社した頃

やはり、動機が不純な青年にハッピーは続かない。入社前に仲良くなった同期予定者が、寝返り、他社に就社。そのため青年は「工学部卒」ということだけで、情報システム部に配属になりました。
入社後の研修で、青年がPCが使えないことが発覚。。しかし、流石ポジティブな外資系、「それであれば、いきなりUNIXを覚えてサーバーの管理者になれ」と、、そこから分厚いSUN Microsystemsの教本を持ち歩き、死ぬほど勉強した。1年後、やっと簡単な管理ができるようになります。
そこに、ゴジラのような慶應大学の村井教授が現れました。(日本のインターネットの父と言われる大先生)
「これからは、インターネットの時代になる。国際通信事業の世界トップのAT&Tがインターネットプロバイダーをやるべきだ」と。
そんな世界最先端の新規事業の担当者に選ばれ、1億円のサーバーを与えられ、管理しろと。さらに、昼は川崎の富士通の研究所に行って、仮想世界空間でインターネット的な通信のオペレーションを学び、その後、六本木の会社に戻ってサーバー管理をする(帰り道の誘惑に負け、毎晩合コン)、という貴重な経験をさせてもらいました。

▼日本で初めてインターネットサービスが始まった話

1993年に日本初のインターネットサービスを始めます。その時点で国際通信線をもっていたのは、AT&Tと学術ネットワーク方面からのIIJの2社の寡占状態で、国内の通信事業者(当時のニフティ、ビッグローブ、、)はセカンドプロバイダーと呼ばれていました。
そんな中、青年はエンジニアよりも営業の方が向いているのでは?と会社に気付かれてしまう。流石ポジティブな外資系、ならば「エンジニアと営業と両方やらせよう。」と、、さらに米国人社長付きになり、難しい仕事を山ほどやらせていただきました。。
そして、AT&Tが世界でインターネットをやるぞ!ということになった1997年、本社のある米国ニュージャージーに招聘され、社長はAT&Tグローバル営業へ、私はアジアの営業へ、インターネットとはね〜と説明会を行いました。
しかし米国外資系で働きながら、英語の勉強をしてこなかった青年は、しどろもどろ(会社で英会話学校に行かせてもらっていましたが、営業が忙しいと怠けてた結果)。。自己紹介もままならず、説明も片言英語で、200人からブーイング! 相当凹みました。。
そんな中、同時期に全国でユーザーが増えてきて、青年は東京以外のデータセンター構築の仕事が増え、札幌、仙台、大阪、福岡、米軍基地などを飛び回っていました。(ここで、地域の国立大学、自治体との出会いが生まれました。)
青年の中で、インターネットの新しいことをやり切った感が出てしまった1998年、ある顧客の担当者(同じ年の青年)から、自分の会社を作ったので、創業メンバーとして参加してほしい、、同時期に天才CTOと外国人2名も参画する。と誘われ、悩みに悩んで、300人の会社から10人に満たない会社に移ることにします。
1998年7月 Digital Magic Labs(DML)に入社し、心機一転、新天地で活躍します。
日本でホームページ制作会社はまだ少なく、サーバ構築からブランディングまでできる会社も希少で、大手電通様からもお仕事いただけました。私はデザインに触れてこなかったので、夜な夜なデザイナーがイラストレーターで作り出すクリエイティブを横に座って見ているのが楽しかったなー。。 この辺は話が長くなるので、別途どこかで詳しく話しますね。
ただ、2001年クリエイティブに拘っていた若社長が株式上場(IPO)をしたくなってしまいます。まだ「ベンチャー」という言葉がない時代です。青年が監査法人、証券会社、顧問法律事務所と半年間、寝る暇を惜しまず対応をするが、上場直前で、証券会社からの謎の指摘により延期になる。更に、無理に方向転換をした結果から、社内がバラバラになってしまいました。
そこで、35歳を機に、独立を考え始めました。
DML入社時から、社長に「小坂さんも目標を決めて独立してください。我が社は世界中にLabをつくるので「Digital Magic Labs」という複数系なのです。」と言われていたので、自分のLabを創ろうということで2002年4月に外苑前のワンルームに「TK-Lab」を設立しました。
(本当は青年の憧れの地、表参道が良かった。。)

▼独立してから仕事は入ってきたが…”損害賠償1億円以上!”

その当時、“相当変わった人”しか独立しない時代、IPOを目指した会社から「個人事業主」になって会社を設立したのは良いけど、経理や税金などまったくわからず、脳天気なまま出発進行。。
幸い、今までお付き合いいただいた方々から、ありがたいことに数多くのお仕事をいただけていました。
そんな中、2000万円の案件が飛び込んできます。自分がマネージメントをし、開発はパートナー会社さんに外部委託。プロジェクトは大成功したものの、問題勃発。源泉徴収は10%なのは、100万円までで、、それ以上は累進課税と知らず、結果、資金ショート!(次の年、過払い分で帰ってきたのだが。。)
資金繰りとしては大失敗! お小遣い。。無くなる。。
また、こんなこともありました。 ガラケー時代に、i-mode向けのコンテンツを生成してくれるシステムサービス(CMS)があり、それを利用して有名コスメ会社の会員サイトを代行運営していました。
ある日、お客様から、「キャンペーンが終わったので登録ページを削除してほしい。」とのことだったので簡単にCMSでページを削除。すると、翌日お客様から会員情報がまったく表示されなくなったと連絡があり、CMS会社にクレーム的に電話すると、
「昨日、DBページを削除されていますので会員情報データも削除されましたよ。」と。。
漫画で額に青い線で「ガーン」というシーンがありますが、本当にあるんだなと思うくらい「ガーーーン」です。
契約書を見ると「損害賠償は1億円以上!!」
覚悟を決めて冷静になって、元エンジニア思考で考えました。。データをサーバーから削除しても物理的にはしてないはず、、今ならなんとか間に合うのでは。。CMS会社に説明し、復旧をお願いしたところ、先方としても(ページ削除でデータを削除するのは問題があると)認識いただき、手動でデータを復旧いただく。お客様にも真摯に対応したことから、事なきを得ました。。
そのときにいたスタッフは、「今でも、天を仰いで終わった!!という社長の顔は忘れないですよ!」と会うたび言います。

当時の様子

▼努力を重ねて少しずつ軌道に乗ってきた

そんな3、4人のLabにも大きな案件が来始めます。
MicrosoftさんやSONYさんという超一流の業界TOP企業から、それも直接の案件です。
Microsoftさんは、X-BOXというゲーム機が通信機能を持って、次世代ゲーム機に返信するのだが、どういったことが出来るようになるかをクリエイターに伝えたいので、説明資料をAdobeのFLASHで制作してほしい。とのご依頼でした。
ただ、そんなことができる我が社のデザイナーは沖縄でワーケーションしていました。なので、私がユーザー訪問してヒアリングし、それをパワーポイントにまとめて、毎晩、沖縄に送る。沖縄で時差開発して翌日、またフィードバックをもらい、それをパワーポイントにまとめて沖縄に送る。。という日々が続きました。
デザイナーが制作してくれたクオリティが高かったので、Microsoftさんも調子づき「あれも追加してほしい、このタイミングでメールが飛ぶように!」なんて追加依頼が大きくなり、最後は「Flashでゲームと同じレベルのものを作ってしまいましたてね。。」なんて言われる次第、、、結果、褒められたということと、十分に費用をいただいたので満足しました!
SONYさんは、まだまだ、テレビがブラウン管のころ、壁掛けテレビを開発していたのですが、発注元のディスプレイカンパニーのプレジデントが「今まで同じリモコンでは嫌だ。。」と言っていると。簡単にいうとiPhoneのタッチUIと同じようなものを作りたいと。
その時代、SONYさんは、VAIO-Uという(今でいうiPad miniのような)端末を販売していました。ただ、スタンドアローンのPDA端末であったため、リモコンにはなりません。
そこで、TK-Labが全力を出し(ビックカメラでテレビとPCを買い、仮想ホームサーバを作り、Adobeのショックウェーブを使ってUIを実現、1週間徹夜する。。)、ギリギリのタイミングで実現できました。
なんと、その壁掛けテレビは1台140万円で販売されました。我々は、ディスプレイカンパニーのプレジデントから茶封筒に入った30万円の現金(まるでバイト代)。。と無理難題を実現した達成感!!をいただきました。(お金的には小さすぎるけど、いまでも語り続けられる財産としては大きな宝です。)
この後も続々とお仕事をいただけるようになり、その中で「INNOVATION PLUS」が誕生するのですが、その秘話は、次の記事でご紹介しましょう!

最後まで読んでいただきありがとうございました!

イノベーションプラス代表取締役 小坂 武史

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