空海の教えを人生に生かす

先日また高野山に行ってきました。
和歌山リフレッシュプランを使って宿泊したのですが、うち1泊の宿坊から「リフレッシュクーポンを渡し忘れてました、申し訳ありません」という連絡がきました。
全然いいですよと返事したのですが、ご丁寧にお詫びの手紙と共に高野山の手ぬぐいと高野山を特集したマガジンが郵送されてきたので、有難く拝読しました。

この号には空海の人生が紹介されていたので、高野山のファンとしてこれを機にまとめておきたいと思います。
(高野山の旅行記はこちらの記事をご覧ください)

空海の一生

空海は今の香川県で生まれ、幼名を「真魚(まお)」と言いました。
真魚は聡明で、父やおじは真魚を官僚にすべく英才教育を施し、大学に入れました。
しかし真魚は、机上の学問や富・権力にあけくれる都の現状に嫌気がさし、退学して出家しました。
当時は国に認められなければ正式な僧にはなれず、真魚は乞食同然、食うや食わずの生活となりました。
それでも、飢えや病に苦しむ人々を救うには仏教しかないと志し、「空海」と名乗り修行に明け暮れました。

そんなある日、空海はついに人々を救う経典「大日経」に出会いました。
しかしこの経典は難読を極め、日本には読解できる僧がおらず、唐へ行くことを決意します。
とは言え正式な僧でもない空海が唐へ渡るなどまず不可能です。
それでも志を決めた空海は唐語を習得し、(記録にはないが)朝廷への根回しを行い、7年かけて遣唐使に随行することを認められました。
遭難しながらも命からがら唐に着いた空海は長安へとたどり着きます。
経典の原語であるサンスクリット語を習得しながら、恵果から一子相伝の密教の奥義を2年で授かりました。

帰国した空海は嵯峨天皇の庇護のもと高野山を中心地として密教を日本に広めます。
それだけでなく、唐で土木技術も学んでいた空海は日本最古のダムを建造したり、仏教だけでなく儒教や道教も学べるような私立学校を設立しました。
「いろは唄」も庶民が言葉を覚えられるよう空海が発明したものと言われています。
しかし激務がたたり体調を崩し、穀物を断って高野山で入定し、生後1250年が経つ現在もこの地にて人々の救いを願いながら瞑想しています。

空海に学ぶ「世のため人のため」

空海は出家さえしなければ、官僚として何不自由ない生活を約束されていました。
まして空海ほどの聡明さなら、地方出身というハンデを乗り越えて相当な権力も手にできたかもしれません。
ところが空海が選んだのは乞食同然の道。
空海が自分第一の人間であれば、間違いなく前者の道を選んでいます。
現代人に聞いても後者を選ぶ人はほぼ皆無でしょう。

空海がこの道を選べたのは、世のため人のためという揺るぎない志を持っていたからです。
当初は官僚になって、世の中を正し苦しむ人々を救いたいと思っていたのではないでしょうか。
しかしいざそこに立ってみると富と権力に執着したおぞましい世界で、空海一人が奮闘したところでどうにかなるレベルではなかったのでしょう。
そこに浸って虚しい栄華に満たされ死ぬくらいならと、たとえのたれ死んでも信じる道を進みました。
この辺りは、王子の身分に生まれながら出家したブッダともダブりますね。

純粋に信じる道を進む一方で、空海は唐に渡るために朝廷と繋がったり、帰国後に嵯峨天皇の権力争いを支援して庇護を受けたりと、目的のためなら嫌いなはずの権力も利用する強かさを持っているリアリストだとも感じました。
いつの時代も世の中はきれいごとだけでは生きていけません。
目的を達成するためには、逆境にあっても折れない強い意志が必要です。
そのためには、やはり志が立っていなければなりません。

「世のため人のため」は苦しみから解放される唯一の方法

この項では仏教的な考察を入れているので難しい部分もありますが、せっかく空海を学んだので、仏教的にも「世のため人のため」が不可欠な根拠としてまとめてみます。

ブッダの記事でも紹介しましたが、仏教はそもそも苦しみから解放されるために提唱されたものです。
仏教では「欲」が苦しみの根源だと説かれています。

・お金持ちになりたい
・健康に生きたい
・人から賞賛されたい
・おいしいものを食べたい、酒を飲みたい

こういった飽くなき欲があるから、満たされない自分とのギャップに苦しみます。
そしてこの欲には際限がないから、満たされたと思った瞬間さらなる欲が出てきて、永遠に満たされることはありません。
この苦しみから解放されるヒントは、空海が出会った経典「大日経」の世界観にあります。
「宇宙は大日如来のエネルギーで満たされており、人はその一部であり全てである」

大きな池に満たされた水、これが宇宙であり人間であるとイメージしてみます。
そこに我欲に固まった存在が氷として現れると、水の流れはこれを避けて氷は孤立します。
現代はそんな氷だらけで一見孤独を感じないかもしれませんが、氷同士は触れ合っても弾き合うだけで、欠けることはあっても交じり合うことはありません。
人は全てと繋がってるのだから、我欲を通すという自然の流れに逆らうようなことをして満たされるわけがありません。
自分も水の一部として周りのエネルギーの流れを良くすることで、自分にも良いエネルギーが循環するようなイメージが必要でしょう。

この例えは私が分かりやすいと思って感じているイメージですが、このような宇宙と一体であるという考え方は、松下幸之助も「根源」という木札を掲げて戒めています。

ビジネスに不可欠な「世のため人のため」

現代のビジネスマンの多くが感じている苦しみはこれでしょう。
「お金を稼ぐために働かなければいけない」
この苦しみに陥ってるかどうかは、自分に次の問いをしてみると分かります。
「仕事をしなくても何不自由なく暮らせるとして、今の仕事を続けたいか」
これがNOであれば、程度の差はあれ苦しみの中にいます。
ではどうやったらYESになるかと言えば、心から世のため人のためになっていると感じながら働くことしかありません。
今の仕事の考え方を変える、転職する、事業転換するなど、方法は人それぞれでしょう。
こうと決めて徹しているといつの間にか周りに人が集まり、暮らしに不安を感じることも贅沢をすることも忘れて仕事に夢中になっている。
先日亡くなられた稲盛和夫さんはまさにそんな生き方をされていました。

ブラックに働くべきとか贅沢してはいけないということではありません。
自己犠牲の限度を越えて世のため人のために尽くせるのはそれこそ聖人です。
働き過ぎた結果空海のように体調を壊しては元も子もありません。
大事なのは、お金の奴隷になっていないか、周りと比較してないか、自分が自分の人生の主人公であるか。
つまり主体性に生きているかを自分自身に問い続けることです。
「世のため人のため」に生き続けるという志は、挫けそうになってもまた立ち上がるための柱になります。

今も生き続けるお大師様のパワー

類まれな才能を持ちながら世のため人のためを徹底的に貫いた空海は、生まれてから1200年以上経った今も「お大師様」として敬愛され続けています。
真言宗の教えでは今も生きて瞑想されていることになっていて、姿を拝見することはできません。
しかしその熱い志は現代に生きる私たちにもパワーを与え続けてくれていますし、今も瞑想されているという奥の院のお堂に行くと、思わず立ち尽くすほどに神聖なものを感じます。
それは空海のパワーだけではなく、空海の教えを1200年に渡って守り続けてきた人々の思いが重なってるのを間に当たりにするからでしょう。

「世のため人のため」は学問や宗教を問わず、何より自分が幸せに生きるための真理である。
私は普段は儒教的な教えを基に記事を書いていますが、空海の生涯に触れることでそんなことを思わせてくれました。

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