慈雲尊者『十善法語』①:不殺生戒

「生」:感情や意識がある生き物
「殺」:「生」の命を奪うこと

人としての生き方を全うする中で、初めに不殺生を保つ。
人であるからこそ誰にでも備わっている徳を尊重することは、真実に到達するために重要なことで、不殺生の人道を全うして天道に至る。

全ての戒には犯すレベルがあり、不殺生戒では次の通りである。
上:人を殺す
中:蛇などのような動物を殺す
下:蚊のような虫を殺す

不殺生戒を守ることはどのような人に対しても尊重を保つことであり、親族への尊重は当然であり、忠義や慈悲の心へと繋がる。
この境地に至れば、動物や虫に至るまで母子の愛情があり、雌雄の親しみがあり、生を楽しみ死を恐れることが分かる。


一言で言うと「殺すな」という教えですが、一番目にして最も実践が難しい戒かもしれません。
人を殺すことはないにしても、命をいただいて生きている以上動物を殺さないという訳にもいきません。
これはどのように捉えれば良いのでしょうか。

平等性の尊重⇒不殺生

慈雲尊者『十善法語』⓪の記事内で仏性(命が生まれながらに持つ仏の性質)について触れましたが、これは人間のみならずあらゆる生物や自然に備わっています。
仏性においては人も畜生も平等なので、その命を断つというのは罪であるという訳です。
ただ、人間は畜生と違って真理を継承し真理を辿ることができる唯一の存在であるので、人間を殺すのは特に罪が重いということです。
お釈迦様が生まれた時代は戦争や飢餓で今とは比較にならないほど命が軽く、特に人の道として不殺生を戒律の根本とする必要があったのではないでしょうか。

不殺生と食の関係

では命を繋ぐために動物を殺生することはどうなのでしょうか。
これについては十善法語には明記されていませんでしたが、厳密に解釈すればやはりNGなのでしょう。
しかしそれでは人としてとても日常生活を送れません。
それに肉や魚を食べなければ良いのかというと、米や野菜を育てるにも無数の害虫や害獣を殺して作っている訳で、これもダメということになってしまいます。

まず疑問に思ったのは、あらゆる命はその性質そのままで仏性であるなら、肉食動物が他の動物を捕食するのはそれも仏性でしょうし、魚や肉を食べれるように作られた人間がこれらを食べて命を繋ぐのは仏の教えに反している、という考え方が今ひとつピンと来ないのです。

他にも肉食がOKな解釈はないかググってみました。
こちらのブログ記事「肉を食べるということ〜曹洞宗の立場から考える〜不殺生としての食」によると、「命を生かしきる」ことが肝要であると書かれていました。
まず、殺した命を無駄なくいただくこと。
そして、他の命を殺してまで繋いだ自分の命を生かしきること。

食事から「自分の命を生かしきる」への解釈は目から鱗でした。
このように捉えれば、食のために命をいただくことを罪と捉えるのではなく、毎日を一生懸命に生きるパワーに変えることができるのではないでしょうか。

不殺生戒を守る生き方

現代に生きる私たちにもできる不殺生戒を守る生き方を考えてみたいと思います。

まず、殺した命を無駄なくいただくために、食品廃棄はなくさなければなりません。
暴飲暴食も避けなければなりません。
そして家庭のみならず、社会全体でフードロスを撲滅していく意識を持たなければなりません。
個人にできることとして、すぐ食べるなら消費期限の近いものから取る、そういう小さな心がけを続けるだけで不貪欲戒を守ることにも繋がり、強い心を育む一助になると思います。

そして食事の際は、「いただきます」「ごちそうさま」の挨拶に貴重な命をいただくことへの感謝を込め、繋いでいただいた自分の命を無駄なく生かすことを誓います。
これについては私も今日から継続して取り組んでみます。
挨拶の手本がないかググってみたところ、浄土真宗のウェブサイトにこんな言葉が掲載されていました。
真言宗にもないか調べてみましたが少し長かったので、子供と一緒に唱和するには簡潔で分かりやすい方が良いと思いこちらを実践してみます。

〔食前のことば〕
(合掌)
●多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
○深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。

〔食後のことば〕
(合掌)
●尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
○おかげで、ごちそうさまでした。

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