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森信三いのちの言葉⑩ 第十章 自己をたずねて宇宙に至る

近々仏教についてプレゼンする機会があるので、とても親和性の高いこの章を先に読みました。
③~⑨は改めてレビューします。


【十章の概要】
「人としての正しい生き方とは何か」を突き詰めて考えていくと、「この世界(宇宙)はどういう仕組みなのか」「人と世界(宇宙)との関係はどうなっているのか」という命題に突き当たります。
人間は一人では生きていけないので、人とそれを取り巻く世界との関わり方について考えざるを得ず、正しい人生観のためには正しい世界観が必要です。
森先生の全一学はこのような宗教的な思考と哲学の統合です。
個人の苦悩は、宇宙と一体となった生き方(世界観と人生観の一致)が実現した時に消え去ります。

このような考え方に基づくと、「恩」とは単なる「貸し借り」や「お世話になった」では軽すぎます。
自分の存在の根源を辿っていくと、祖先、地球の誕生、宇宙の誕生へと遡ります。
そうした「恩の自覚」が真に徹した時、限りない感謝の心が生まれ、それが報恩へと人を駆り立て、人生を変え世の中すら変えることができます。

人間にしかない「叡智」によって人は文明を築き、宇宙にまで思いを馳せることができます。
その叡智によって人間は生きる意味を求めて苦悩し、自らの魂を磨き上げていきます。
その暁に世界の美しさと人生の甘美さに気付くことは、天が私たちに与えてくださった恵みです。

「精神宇宙」(世界の成り立ち)は目に見えないので、直接探求することができません。
ではどうするかと言うと、精神宇宙を反映した存在である人間の心を深く緩急することで明らかにすることができます。
自己の最も深い部分にまで至って、宇宙へと続く扉を発見することができます。
そのためにはお金や享楽といった物質世界との断ち切りが必要ですので、古代の聖賢たちは世を捨て山林で修行しました。
現代人はそのようなことはできないので、理論と実践、つまり古今東西の本を読み、掃除や読書会や立腰を行うことで、自己を深めていくことができます。

個々の人間の心は広大な精神宇宙の一部です。
即ち個々の人間は「いのち」であり、宇宙自体も一つの「いのち」です。
自分が「大いなるいのち」の一部であることは、自分存在の根源に関わる問題なので、自ら自己の探求を続けることによって「自証」していかなければなりません。
全一学とは「いのちの自証」の学であり、万物の根源である「いのち」に至ろうとする壮大な試みです。

宇宙は一つの「いのち」として動的秩序構造を持っています。
自然界の食物連鎖は、変化しながらも全体のバランスが取れており、「いのち」の循環が行われています。
宇宙全体でも人智を越えたスケールで「いのち」の循環が行われています。
そのようなマクロな世界観を持ちながら、ミクロである個々人の人生をいかに生きるかが全一学の課題です。
その答えは、一~九章で述べたように、「心願」を立て、一道を貫く人生を送り、日々おのれを磨き、逆境の試練に耐え、師弟関係のつながりを大事にし、自分の心を深く掘り下げていくことです。

大宇宙生命の一部であると言われても容易には信じられないでしょう。
しかしそれは信じる信じないではなく、先述した通り自ら証明すべきもので、一~九章の修行によって達成するものです。
大変なことですが、人間は自分の存在意義を常に問いかけながら生きる存在であり、これから目を逸らしては苦しみから逃れらません。
逆に「いのちの自証」に達すれば、宇宙の循環の中でたまたま「わたし」や「あなた」という形を取ったに過ぎないと悟り、死の恐怖から完全に脱し得ます。
しかしそれでは宗教的観念止まりですから、私たちはそこを踏み越えて、現実のこの人生をどうやって最大限に輝かせるかを目指さなければなりません。


全一学と真言宗

前提知識がなくこの章を読むと、チンプンカンプンかもしれません。
哲学の内容ではありますが、至って宗教的な思想が散りばめられています。

私がこの章を読んで思ったのは、普段から接している真言宗の教えと完全に一致しているということです。
(真言宗についてはこちらの記事にまとめています)
真言宗では宇宙そのものである大日如来を最高位の仏として祀り、自分が宇宙の一部であると悟ることを目的としています。
真言宗の僧侶は、大日如来と一体化する瞑想を日々行っています。
ですので、真言宗の教えをかじっているとこの章に書いてあることは違和感なく入ってくると思います。
それでも観念としては難しいですが…。

真言宗では自分だけの喜びを「小楽」、宇宙全体の喜びを「大楽」と表現しています。
自分が宇宙の一部であることを悟れば、自然と自分の行動は「大楽」を求めるようになる。
つまり私欲ではなく公欲のために生きることができるということです。
これは、この章にあった恩の話と全く同じ理論です。

宗教と哲学

歴史的には宗教と哲学は水と油のように扱われてきましたが、全一学で提唱されているように矛盾するどころか補完し合えるものだと思います。
自己の深い部分を探求すると言っても、本文中でも指摘のあったように現代社会で物質世界と隔絶するのは非常に難しいです。
読書も必須ですが、宗教はそもそも心の深みを探求するための学問として確立されたものなので、活用しない手はないと思います。
二宮尊徳は仏教にも造詣が深かったし、恐らく森信三も仏教に関する研究は相当なものだと思います。
逆にこの全一学をもっと深く知れば、仏教の造詣も深まりそうな気がします。

宇宙の一部としての生き方

この章は第一~九章で書かれた実践を行う理論的根拠なので、実践について直接書かれた部分は少ないです。
しかしやはり、実践する際に自分が宇宙の一部だと自覚しているか否かで、深みや熱意に大きな差があるように思います。
「世のため人のためが自分のため」という言葉がありますが、自分に直接帰って来なくても「世のため人のため」自体が「大楽」と実感できれば、もの凄いエネルギーを発揮します。

こう表現すると壮大な内容に聞こえますが、実践は小さなことの積み重ねです。
例えば、私はバーベキューの時に率先して焼き係をやりますが、自分は食べなくてもみんながおいしく食べてるのを見たらそれだけで満足です。
面倒事を率先してやるようなことでもいいでしょう。
些細な日常の中で、人の喜びを自分の喜びとして、人の苦労を自分の苦労として捉える意識を持っておく。
それが当たり前になれば、「あなた」も「わたし」も宇宙の一部として同じ喜びを経験しているという境地に至れるのではないでしょうか。
そうすれば周りも幸せ、自分も幸せです。
私自身はまだまだ程遠いですが、少なくともそのような生き方が幸せに至る道というのは知っているので、あとはひたすら日々の意識づけと実践と反省ですね。

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