見出し画像

庵野秀明のようなもの

「プロフェッショナル 仕事の流儀」庵野秀明スペシャルをみた。
このノートは、その感想ともいっていい。とても個人的感想で、客観的な正しさなどを主張するつもりは全くない。ドキュメンタリーという作品に対する、僕の感情をここにとどめておく、僕の視点を提示する、そしてできればそれについて話し合える人(非難、批判を含めて)がいるといいな、くらいの思いで書いている。
 プロフェッショナル、という番組の、庵野さんVerってことなのか、まだよくわからないが、庵野さんを捉えるには、最悪の構成であって、それでこそ最高の構成になったかもしれない。庵野さんが見れば、不満であって満足だろう。なんかかっこいいことを書こうと思っているわけではない。

ちなみに、庵野さんはこのような人だ。(NHKホームページから:http://www6.nhk.or.jp/anime/topics/detail.html?i=10318)

 プロフェッショナル、つまり金をもらって何かをやる、そういう「職」としてのあり方を問うような企画で、庵野さんを捉えようとしたことが、大失敗だった。多分、庵野さんはみて満足しないだろう。
 というのは、まず、彼(庵野氏)についての説明が必要に思える。僕が思うには、彼は芸術家に見える。

 その芸術家とは、ルネ・マグリットのように、草間彌生のように、常に芸術家としてあり続けるような人のことだ。
 例えば、クロード・モネは、印象主義的な絵画を世間に発表し、ある批評家から「印象しか捉えてない」と批評された。(この批評から、印象主義という名前がついた)その当時のモネは、芸術家だったと思われる。だが、今モネの作品は、芸術であった作品なのではないかと思う。
 モネの作品をみたとき、光の加減によって変わっていく同じ場所の違った風景を捉えている、それまでアカデミズムで行なっていたようにはっきりとした線からなる絵画を描くのではなく、ぼやけた、メガネをかけてない僕が夜の街を見るような、印象をそのまま描いた、と評することができる。そして、その後、その作品をみながら何を言えよう。「なるほど、美しい」などとの感想が続くのではないだろうか。それは、「美しい」と言われた途端、もう革新でもなく、芸術でもない、といった考え方からの、芸術、それをやっている人間がルネ・マグリット、マルセル・デュシャンなどの人々なのではないか。そして、庵野秀明もそれらの人物と似通った人なのではないか、という意味での、「芸術家」である。

 マルセル・デュシャンは、1917年に発表した以下の作品「Fountain(噴水)」でよく知られる芸術家である。

これが何を意味するのか、はデュシャンにとってはさほど大事なことではない気がする。そのことは以下の言葉から確かめられる。

「The Creative act is not performed by the artist alone; the spectator brings the work in contact with the external world by deciphering and interpreting its inner qualifications and thus adds his contribution to the creative act」


 授業で聞いたので、どこで、いつ語った言葉なのかは確か出ないが、デュシャンの言葉であることは間違いない。
 セミコロンの前、「創造的な行為は行為者だけによって行われない」、というところが最も大事なように思われる。

 庵野秀明は、ドキュメンタリーでこのように語っていた
「想像でものを作ったら、その人の脳の中の世界しか写せない、外部がない」
 彼が語った言葉そのままの引用ではないが、概ねこのようなことだった。彼のエヴァンゲリオン(僕は、昔の方しか見てない、これから見る予定だが)には、普通使われないアングルが使われる。天井からとるシーンみたいに。
 モーションキャプチャー(人の体に、何かを付着して、その動きを読み取り、アニメなどの主人公の動きを捉える、みたいなことをやるのだと思う。もっと詳しく知っている方は教えて欲しい)という作業をする際に、彼は、スタッフに、特に指示なく、ただ撮らせる。
 「普通のアングルじゃあ、だめだ」との彼の強い思いから、なかなかいいアングルが見つからない。(庵野氏の意見)
 普通のアングル、とは、庵野氏や他のスタッフが考えられるもの、想像できるもの、具現できるもの、なのだと思う。
 庵野氏は、想像もつかなかった特別なアングルを捉えたかったのだろう。今になって印象主義的な画法で絵を描いたって、誰もそれを革新だとは思ってくれない。印象主義の模倣、としか思わないだろう。そういうことなのだ。

 こういうタイプの芸術家は、結構多いように思われる。ロシアの画家であり、絵画理論家でもあったカジミール・マレーヴィッチも、似たようなことをいう。


「マレーヴィッチ(1927)は、模倣ではなく、創造する芸術家は自己自身を表現し、その芸術家の作品は、自然の鏡像ではなく、新しい現実であるとする。自然の鏡像のような現実を描くことは、創造の能力を失った、現象それ自体に屈服する人間に止まることであり、「付加的要素」が欠如されていることなのである。「付加的要素」とは、鏡像としての現象に亀裂をもたらす、「意識的要素と潜在意識的要素との間の正常(通例の)関係に変化をもたら」すものであると同時に、社会における「規範から逸脱するもの」であるとみなされるため社会から「破壊的な(規範を破壊する)「生の要素」として排除される」ものであるとする。」

以上は、ぼくの拙い論文からの抜粋である。カギカッコ付きの引用は、 大石雅彦氏の『マレーヴィッチ考「ロシア・アヴァンギャルド」からの解放にむけて』(人文書院、2003年)からの抜粋である。
 マレーヴィッチの分類による創造する芸術家が、ぼくが上で述べた「芸術家」というものだと思う。

 当取材班は、そのような庵野秀明を捉えることは、毛頭も考えていない。彼の「職」としての映画監督、エヴァンゲリオンという社会現象を呼び起こした(番組でそう言ってた)作品の監督として庵野秀明を捉えようとしている。そこがずれているのだ。

 今上映されている、エヴァンゲリオン最終盤をたどるのが、このドキュメンタリーの大柱だが、庵野氏がスタッフがだす案なども全て棄却しながらもなんの指示も出さないくせに、任せっきりである現状に行き詰って、あるスタッフは、庵野さんのこのようなやり方について、こうコメントしていた。

 こちらも、ちゃんとした引用ではない、番組からのインタビューの概ねの内容であり、その中でもぼくの脳が聞きたい部分だけを聞き取った部分だ。

「普通の監督なら、こういうやり方でしないだろう。…(映画作りの)いい進行方向とはぼくの口では言えないです…云々」

ぼくの思う「普通の監督」とは、絵コンテをかき、そのまま演出する、モネの絵を真似る、ゴッホの筆のタッチを真似る、遠近法に徹底できに従い写実的にものを描く芸術家、マレーヴィッチの定義で言うならば「模倣的な芸術家」のこととも考えられる。
 庵野が辿らなかった「いい進行方向」とはなんなのか、それは方法のあり方というよりかは、姿勢や目的により焦点を当ててこそわかるような気がする。
 つまり、「職業」としてやってるのか、ただ何かを「やっている」のか。庵野氏のように、ただ、何かを「やっている」人間に、金を稼ぐプロフェッショナル、つまり「職業的な」、あるいは「職業家的な」こととはなんですか、と問う取材班の質問は、
「4年間もとったのに、その質問をするのか、アホ」と思わざるを得ない質問であった。彼はそれから金を稼ぐことを考えていない。それは仕事ではない。何かの行為なのであり、それはあとで世間から芸術として受け入れられるだろう。

 庵野氏は、途中でデッドラインに合わすことが難しいことを知りながらも、ABCDの四つのパートからなる映画の、Aパートを、脚本から練り直すと宣言する。
 そしてその際に、スタッフに向かってこう語る
「理解されていると思っていたら、何も理解されていなかったことがわかった」
 庵野氏は、自分の想像力にも、スタッフの想像力にも頼りたくなかった。それは、多分「誰でも」想像できるような、やり方になってしまうからであろう。なので、自らの想像力から飛び出すために、行き詰った状況から、普段は考えないようなことを考えようと、実践しようと努力する。それを、スタッフにも望んだのだと思う。
 庵野氏は作品を、庵野氏が見つけ出した、普通の想像力では行き着けないどこか、そこを、庵野氏とスタッフ各々の想像力を超えた外部からかき集めて仕上げたかったのではないか、と思う。

 理解されていなかったことがわかった、と語る庵野氏の顔がすごく寂しそうに見えた。特に庵野氏が偉大な人物とか、我が強い人、個性的な人だとは思わない。
 我が強い人などありうるのだろうか、むしろ「我があるひと」と「我が薄い人」の間のどこらかに我々は置かれているのではないか。そのどこかに置いて、庵野氏は「我がある人」に近い人物なのではないか、と思うだけだ。そこが羨ましいと思った。

 このドキュメンタリーをみて、なぜか、何度か泣けてきてしまった。よく理由はわからない。こんな状態で理由を探し求めることは、理由を新たに作る行為でしかないことを、知っているからあえてしないことにする。

 最初の、感想に戻って、終わりにしたい。
なぜ、最悪であって最高だったかもしれないのか、ドキュメンタリーの意図は、企業社会(ミシェル・フーコーが述べた、オルド自由主義、1930年代頃からのあるいはドイツ新自由主義に基づく:コレージュ・ド・フランス『生政治の誕生』参照)という枠組みに完全に沈んでいる。職業精神、という枠組みは、職業という定義(生計を立てるために日常従事する仕事)から垣間見れるように、「収入」や「所得」と関わっている。そのような目的性の下で何かの行為をするもの、そのものの精神を捉えることがこの番組の企画意図、あるいは無意識的に現れてしまったこの番組の性質とも言えるのだろうと思う。
 その捉え方で、そういう目的性とは異なる目的性によって何かの行為を行うものを捉えようとする、そのやり方自体が間違っている。しかし、間違ったやり方で彼を捉えようとするからこそ、我々の生きる世界には、「我」が無いことを、痛感できる、と思えた、との意味で最高だった。
 我がある人間は生きづらい。しかし、僕は我がある人間になりたい。たとえ線路に飛び込むものになるとしても

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?