ガストのおばさま

 日本はファミリレストランで長居をする人がかなり多い気がする。食事が長いという意味ではなく、そこで本を取り出し、パソコンを取り出す人がかなり多いという意味だ。僕もその連中の一人である。美味い唐揚げを頬張ってから、勉強ができることはありがたいことだ。
 そういう理由から、度々学校の前のガストを訪れる。従業員はかなり多数いるらしく、同じ人に何度も出会うということはあまりない。にもかかわらず、一人のおばさま(便宜上、「おばさま」と名乗ることにする)は脳裏にしっかりと刻まれている。今日はその理由を書いてみる。
 
 挨拶と共に人数が問われ、消毒を進めるといったことがもはやセットになっている挨拶をいつものように通り過ごした後、またしも唐揚げを頼んだ。その時、サービングをしてくださったかたが、そのおばさまかははっきり覚えていない。だが、食べ終わった後、食器を片付けている際に、今回の「モノ語り」の話題であるおばさまから声がかかった。
 「あら、言ってくれれば片付けるのに。ははは」
 どこかガストには相応しくないような気がする笑いがついてきた。僕は何て言ったのかあまり覚えていないが、おばさんは、「言ってくれればいいのに」と何度も言っていたことは覚えている。
 気分が悪かったなどのことでは全くない。ただ、不思議に感じた。おばさまの仕事っぷりは、テキパキしていた。だが(否定的な意味は全くこもってない)、お客様への対応は、どこかぎこちない。例えば「恐れ入ります」などといった言葉はあまり使わない。ぎこちないとはその程度ものである。無礼とかのレベルでは全くない。ただ、アルバイトなら使うだろう言葉遣い、仕草にあまり慣れていないようである、とのことである。あえて表現するならば、ガストの従業員というよりかは、情け深い隣のおばちゃん、と言う感じだった。
 僕はその、どこかぎこちないところから妄想を始めた。

 おばさまは慣れてなさそうなチェーン店でなぜ働いているのだろうか。息子のような僕が皿を片付けたことで、おばさまはなぜ自分がやるべきであったと思うのであろうか。

 僕の母も、僕が子供の時は友達の食堂で働いたこともあり、数年前までは療養・看護の仕事をしていた。僕の母が働いていた理由は、もちろんお金を稼ぐためであった。
 日本は(他の多くの国もそうであるが)、女性にとても厳しい国である。「主婦」あるいは「主夫」が主な収入を得るものではない場合(大抵の場合は「主婦」だが)、「103万円の壁」とか「106万円の壁」があると良く言われる。社会保険や特別控除などの関係から税金などによる支出が増えるため、それ以上働かない方が良くなってしまうそうだ。なので、それ以上働かないことが多いらしい。
 「主夫」という言葉はほぼ耳にしない。その理由は言うまでもなく、大抵の場合子どもが生まれるなどの理由でどちらかが仕事をやめなければならない、となった際には十中八九は「女性」が止めるためであろう。そこにも「合理的」な理由がつく。男性の方が昇進しやすいし、稼ぎが良いという理由だ。そもそも育児休暇や、出産後の復職などの問題から女性が働きにくいだけでなく、「女性」は結婚して子どもができたら止めるだろう、というステレオタイプ化された憶測でそもそも昇進をさせない、などと言ったこともよく耳にする。制度的にも、社会的にも、女性が不利な状況に置かれているのだ。少なくとも僕はそう思う(確信する)。
 女性の働き手は、「マイナー」になってしまうシステムが頑なにこの社会の根底にこびりついている、と言っても良いだろう。それは僕の母国である韓国でも同じことが言える。だが、最近はフェミニズム運動が大いに盛り上がっており、以前に比べればかなり女性の権利が謳われるようになってきた。(あくまでも相対的なレベルであって、絶対値としては全く満足できないレベルであるように思う)

 情け深い隣のおばさまは、そもそも働いたことがない方なのかもしれない。あるいは仕事をしていたが、結婚をきっかけに辞められた方なのかもしれない。どちらであるにせよ、今は「働く」ことにしてガストに出勤しているのだ。
 僕にとって隣のおばさんは、少しうるさいほど親切で、情け多く、おしゃべりな人だ。陽気で、おせっかいなところもあるが、とても嫌には思えない人だ。僕の母のような。
 もし、おばさまが昔は仕事をしていた人だとして、その仕事を続けていたならば、すでに役職についていてもおかしくないだろう。だったら、息子のような僕のお皿を自ら片付けようと思う場面はあまりなかったのかもしれない。僕の母も、人のお皿を片付けることはなかったかもしれない。
 だがおばさまは、全く苦ではないというかのように、より大きな声で次のお客さまにも、その次のお客さまにも声をかける。
 「いらっしゃいませー、二名様ですか?お好きな席へどうぞー」と。
 その陽気なおばさまは、僕の妄想上のおばさまではないかもしれない。おばさまになったこともない僕が、大きな声で笑うおばさまを見ながら悲しい気持ちになってしまうのは、むしろ僕のステレオタイプの表れであって、傲慢な見下しなのかもしれない。しかし、僕はそう思ってしまったのだ。
 もう僕みたいな傲慢で意地の悪い人間が現れないように、あのおばさまの笑い声にこんな出鱈目な妄想が付き纏わないようになる日が来ますように、と神ではなく社会に祈る。

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