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漁体験と論語

 小さい頃、私は新しい事を“覚える”ということが好きでした。母が読んでくれた絵本で文字の読み方を覚え、車の窓を走り抜けていく街の景色の中でいろいろな看板を見つけては読み上げたり、「ねぇねぇ、ちに点々って何て読むの?」と母をつっついては訊ねたり。繰り返し何度も見た『となりのトトロ』は、弟と妹と3人で台詞を全部そらんじてしまえるほど記憶していました。家でよく聴いていた黒柳徹子さんのナレーションの入ったオーケストラ曲『ピーターと狼』は、第一バイオリンのメロディラインに始まり、コントラバスの低音が重なって、音楽と物語が連動して盛り上がっていくハーモニーに至るまで、私の脳内では細部まで完コピして頭の中に音を響かせていました。
 小学校へ上がった頃からでしょうか。私は、自分の覚える力・学ぶ力の表現を抑えるようになりました。子どもの世界では「学ぶことが楽しい」だなんて、そんなこと口が裂けても言ってはいけない雰囲気だったのです。そんなことを口にしたら、いい子ぶりっこだとか、先生に媚を売っているとクラスメイトたちに思われてしまうからです。幸か不幸か、あの頃の私には人並み以上の記憶力があって、それはそのまま学校での勉強に使うことができました。良い成績は取るけれど、クラスの子どもの中で浮かないように、いじめられないように。幼いなりに気を張って過ごすうちに、学ぶこと自体が好きだということを、息をするように隠してしまえるようになりました。

 そんな子ども時代から時を経ること約30年。学ぶことの楽しさなんてものを忘れ去っていた私は、三重県熊野市でご縁をいただき観光協会のお仕事をさせてもらっていました。その中で、漁業体験を観光のお客様にも楽しんでいただこうという企画が立ち上がり、私はそのモニターツアーに参加することになったのです。
 日の出る前、暗いうちに港を出る漁船に乗せてもらうと、沖にある定置網へ船が近づくにつれて、星の見えていた夜空が濃紺から淡いオレンジのグラデーションへ。空の美しさには見惚れつつも、真冬の寒い海風の中で突っ立っているのは辛くて、「早く終わらないかな……」などと不謹慎なことを考えながら、漁師さんたちが器用な手付きで網を操作する様をじーっと見ていました。漁体験とはいっても、その工程の前半は、あやとりのように綱を引っ張ったり巻き取ったりして網を縮めていく作業で、本職の漁師さんたちでないとできません。そのため、私たちモニター参加者はひたすらに寒さに耐えて待つ他なかったのです。かじかむ指先を手をぐーぱーさせながら温めていた私は、ふと、あたりの奇妙な気配に気づきました。いつの間にか船が取り囲むものがいる!鳥たちです。
 彼らは、船とほどほどに距離を保ちながらも、波の合間やゆらゆらと浮かぶブイの上など、それぞれポジション取りをしていました。その鳥の姿を見た私は、ピンと来ました。食いしん坊歴=年齢の私。この気配には馴染みがあります。
「あ!朝食バイキングの開始待ち!!」
 人間と鳥。種族は違えど、食べもの争奪戦の気配は相通じるものがあるのでしょうか。漁師さんのおこぼれの魚を狙うそれぞれの鳥たちが、身体の大きさや強さなどお互いの力量を図りつつ、少しでも優位に立てるよう、食いっぱぐれないようにと、場所取りの無言の駆け引きをしている、この緊張感。ご飯タイムを楽しみにしながらも周囲をけん制し空気を読みまくり、その時をじっと待つ張り詰めた空気に、私はなんだかワクワクしてきました。次々と空から舞い降りて、思い思いの場所取りを始める鳥たち。その姿を見ているうちに、ちょっとした疑問が湧いてきました。波に浮いてる鳥たちの中に、細長い首だけを覗かせている子たちと、お腹で浮いてる全身が見える子たちが居るのです。
「種類によって浮き方が違う。同じように羽を持つ鳥なのに、なぜ?」
 私は船の周りを取り囲む様々な鳥を観察しました。波に揺られて浮く黒い鳥、白い鳥。どちらかというと、白っぽい子たちは水面の上にお腹を乗せてプカプカと浮いていて、黒っぽい子たちは水面スレスレに背中があって首がにょきっと波間に出ている感じでした。同じ種類の子たちでグループを組んでいるところもあって、プカプカ白組と波間に潜む黒組が網と船の周りのあちこちで何組も待機していました。ひょっとして、この浮き方の違いは……観察しながら考えを巡らす私の脳裏に、ある言葉がひらめきました。
「ひょっとして、海軍と空軍?」
いやなにも軍に喩えなくたって・・・と脳内でひとりノリ突っ込みを入れつつ、そのキーワードに沿って再び考えを巡らせてみます。波間に潜む黒組が海軍だとすれば、彼らはおこぼれの魚を追いかけて水中へ潜っていくはずです。一方のプカプカ白組が空軍ならば、こちらの食べもの争奪戦は空中戦になるはず。ひとまずの仮説は立ちました。あとは、その時を待つ鳥たちと同じ気持ちで、答え合わせの時を待つだけ。縮まった網の中でぴちぴちと跳ねる魚たちを、他の参加者の皆さんと共にタモ網ですくい揚げてはブルーのバケツにあけていく、その作業のさなかでも、心の中では答え合わせが待ち遠しくてなりません。きっと船の周りの鳥たちも、人間のこの作業が終わる瞬間を今か今かと待ち構えていたことでしょう。
 そして、魚をすくい終わった後、網を元の海中へと戻して、船は定置網を後にして動き始めました。帰る道中の甲板には、売り物にならない小魚が散っており、漁師さんたちはホースで散水してお掃除をしていきます。船のヘリから散っていく小魚、網周辺でこぼれ落ちた小魚、こういったものが鳥たちの狙いだったわけです。その時、私が見た景色は、仮説の通りでありながら、想像以上のものでした。
 果たして、黒組の部隊は次々と、船の通りすぎた後の波をくぐって水面下へぎゅんっと潜っていきました。なるほど、波間を漂うくらいの彼らの身体は、すんなりと水中になじむようです。白組はといえば、船の通り過ぎた後の空中を何度も何度も旋回しながら、飛び散る魚を空中でキャッチしては、大きく弧を描いてまた円の最後尾へ付くのです。私は、自分の目の高さで飛ぶ鳥を初めて見ました。しかも、あんなにたくさん!!私に白いお腹を見せて飛び去って行く鳥もいっぱい見ました。なるほど、空中戦に長けた白組の鳥の身体は、水面の上に軽く浮いて水の中にはなじまない。みんなそれぞれに、ご飯をゲットするのに適した身体をしているのだということが、よくわかりました。
 鳥たちの朝食バイキング風景は、ちょっとした興奮と無性に嬉しい感情を私に引き起こしてくれました。なんだこれ。なんだこの楽しさ!いつか遠い過去に理科の授業か何かで学んだことが、私の脳みその中で組み合わさって仮説になって、そしてそれが目の前に起こる事象で答え合わせができたこと。なんて、楽しいんだろう!!ああ、「よろこばしからずや」ってこれだったのか!!

 漢文の授業で習った『論語』の一説が、まさか船の上で脳裏に浮かぶだなんて、不思議なものです。でも、この時のうれしさ、肚落ち感とでも言うような納得の深さ、これこそが学ぶ楽しさだったと思い出すことができたのでした。そして、私は心の中でちょっぴり孔子様に謝りました。
「『論語』なんて堅物のおっさんたちが好きなだけの文章だと思ってた。ごめんなさい。あなたの仰った言葉は、こんなにも真実でした。ごめんなさい」
 孔子様と仲直りをしたら、私の中で論語の「学びて時にこれを習う、また、よろこばしからずや」というあの有名な一節の新しい解釈が生まれました。学校の授業や読書など机上で学んだことが、実際の体験で復習して確かめられると、それは、ホントにホントにうれしいものなのだということ。もっとくだけた表現にするなら、「習ったことがホントだってわかった時、ちょー楽しい!!」という感じでしょうか(笑)。それは、脳内にしまってあったただの記憶データが、漁体験によって大切な知恵となった瞬間でした。

 熊野の海と鳥たちが私にプレゼントしてくれた、学ぶ楽しさ、わかるうれしさ。皆さんにも伝わるといいなと願っています。

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