見出し画像

母のこと

 母が死んだ時のことを今でもよく思い出します。うつ病のどん底にあった私を心身ともに支えてくれた人でしたが、50才くらいの時に乳がんを発症していました。摘出手術がうまくいって、しばらくは普通の生活を送っていたのですが、10年ほど経ってから転移が見つかって、数年の闘病の後に亡くなりました。

 母が亡くなった当時、私は不動産会社勤務で終電ギリギリまで働くような生活をしていました。勤め始めて半年経たないくらいの時期で、初めての不動産業で学ばなければいけないことも多く、「早く仕事を覚えて、会社に貢献しないと!!」と焦っていたのかもしれません。母の病状については重々わかっているつもりでした。母は亡くなる数年前から様々な抗ガン治療を試していて、土曜日に通院する時などは私も病院へ付き添っていたからです。ホルモン治療、抗がん剤、漢方、食事療法……3か月スパンくらいでいろいろな薬や治療法を試し、髪がごっそり抜けてしまうこともあったし、薬が強すぎるせいか、重たげな身体を引きずるように家の中を歩く母を見てもいました。でも、通院の行き帰りに周辺のお店をチラ見しながら、母娘でおいしいもの開拓を楽しんだり、他人様のお宅をあーだこーだ言いながら品評したり、まるで散歩のような気分で付き添っていたのです。病院へ向かう時はいつも「私は杖の代わりね」なんて茶化して、肘を折り曲げた私の腕に手をかける母の重みを感じながら、彼女の歩調に合わせてゆっくり歩きました。母とおしゃべりをしながら歩くと、普段見ているよりもスローペースで流れていく街の景色は、仕事上の外出で景色など見向きもせずにカツカツ歩く時の視界とは全然ちがいました。そして、私と出かける時には快活におしゃべりをしてくれていた母とのそんな暮らしに、私はすっかり慣れてしまっていたのです。
 私が終電で帰る日々が続いていた頃、母は頻繁に電話をくれていました。仕事中、私用の携帯をバッグの中に入れっぱなしにしていた私は、人も少なくなった深夜の駅へ向かう途中でようやく、「なおちゃん……早く帰ってらっしゃい……」という短い留守電メッセージを聞くのです。この文章を書いている今は、その録音の声を思い出すと、母の寂し気な表情が思い浮かぶ気さえするのですが、働いていた当時は、疲れた身体に聞こえてくる毎日の同じメッセージを何の感慨もなく聞いては消去していました。今思い出すと、録音の始めの無音の数秒にさえ、娘と話すことができない母の残念さを聞き取ることができるような気さえするのに。
 何の根拠もなくそんな日が続くと思っていた私に、ある日、父はこう言いました。
「お母さんの余命は、長くもって3か月だそうだ。1か月かもしれないし、3か月かもしれない」
目の前が真っ暗になった気がしました。嘘だと思いたい。でも、嘘じゃないことは重々よくわかっている。そう、わかっていたはずなのです。いつかそんな日が来ることは状況としてはわかっていたのに……それなのに、どうして私はそのことを考えもせずに、こんなにも仕事ばかりに時間を費やしてしまったんだろう!
 途端に後悔がどっと押し寄せてきました。朝、会社へ出かける時に、何かもの言いたげに私を見送ってくれていた母。彼女が口にしかけた言葉を遮るように、寝起きの不機嫌な声で「急ぐから!行ってきます!」と叩きつけた私。祖母の誕生日に親族で会食をしたお料理屋さんで、あれほど食べることの大好きな母が、何一つ喉を通らずに、ただひと口、お吸い物のお出汁だけを口にしていたこと。夜、リビングの蛍光灯の明かりの中で、私がクローゼットに放置していた喪服のワンピースの裾をまつって「ほんの数センチ上げるだけで、全然ちがうのよ。ぐっと可愛くなるの」と話していた時は、どんな顔をしてたっけ……あの時もう、私があのワンピースを次に着る機会のことを、母は知ってたんじゃないの?仕事の裏側に置き去りにした日常の暮らしの中で見落としてきた数々のサインが、わぁっと頭の中を駆け巡りました。
どうしよう?でも、どうしようもない。この後悔は、もう取り返しがつかない。せめて……そう思って、私は勤めていた会社に退職を申し入れて、月末で辞めさせてもらうことにしました。突然の退職願でご迷惑をおかけしたにもかかわらず、私の気持ちを汲んでくださった当時の会社の関係者の皆さんには、本当に感謝しかありません。そして、それでも、母は私の退職を待たず、月の途中で逝ってしまいました。

 母は、亡くなる2週間ほど前に入院しました。退職手続きと引継ぎを進めながら、仕事終わりにタクシーで病院へ通った時の気持ちはなかなか忘れられません。私が見ていないうちに逝ってしまわないで。そう願いながら、夜の桜並木の間を抜けていく車の後部座席の心もとなさ。病室へ入ると、静かに寝ている母とじっと見守る父がいて、ホッとひと息。でも、強い鎮痛剤の影響で眠る母とはもう話すことはできないことを毎日毎日思い知って、数日前わずかに母の意識が戻った時に話せばよかったとか、いやいやそもそも家に母がいる間にもっとくだらないおしゃべりをたくさんしておけばよかったとか、もはやどうしようもない事をあれこれ思い悩みながら母の寝顔を見ていました。
 一番悲しかったのは、病室に漂う匂いでした。実は母の亡くなる数年前、母の弟である叔父が、やはりガンで亡くなっていました。肝臓だか、腎臓だか、体内の老廃物を取り除く機能がぐっと低下した頃でしょうか。叔父の黄ばんだ皮膚と病室内の匂いから、ああ、この人はもう長くは生きられないんだなと思ったものです。人の体の機能が徐々に失われていく様子の記憶と共に、その匂いはありました。母も叔父の死に目に立ち会っています。眠ったままでも、考える力が無くなっていても、母にはこの匂いが死の匂いだとわかってしまうんじゃないだろうか。そんな気がして、それが悲しくて仕方が無くて、ラベンダーのオイルを買ってきて、首筋や顔などへ塗りました。せめて嗅覚だけでも、心地よい感覚に包まれていてほしいと祈りました。病室で音楽を流したりもしました。死の香りや死が近づく音。そういうものから少しでも母を遠ざけていたかったのです。けれど、買ってきたCDに入っていたアヴェ・マリアの調べの美しさに、かえって泣けてきてしまいました。天まで届きそうな高音の歌声があまりに美しくて悲しくて、妹と私と二人して、眠る母の隣で泣きました。
 母の最後の数日は、体調の変化はありながらも、意識が戻ることはなく、私たち家族も静かに疲れを蓄積させていました。いつ来るかわからない母の死におびえ、気を張ったまま眠れない日々に疲れ、うつらうつらする白昼夢の中で「これ、いつまで続くんだろう…いやっ、私、今、何考えてたの!?まだ終わっちゃダメ!!」と考えを右往左往させながら、毎日を不安の中ですごしていました。そして、母の何かの数値に変化があって、病室にお医者さんと看護師さんが現れ、なにやらあわただしく母の身体にいろいろな措置を取り始めました。叔父の死に立ち会った経験から、それが最期が近づいている時に起こることなのだとわかっています。泣きながら、母を呼びながら、どうしていいかわからずに立ちすくむ私の目に、ほんの一瞬だけ。カッと目を見開いた母の顔が飛び込んできました。
「!!!」
母が何か言った気がしました。呼吸器をつけ、声を発せられるはずのない状態で、それでも何かのメッセージが母の身体から飛び出して、私の身体へとぶつかってきました。声ではない。言葉でもない。風の塊のような何か。しいて言葉に訳すなら「まだ逝きたくない!」「もう少しだけそばに居させて!」とでもいうような、何か。こんなにボロボロに機能低下した身体で、こんな強い発信を起こしたら、最期にもう数分だけでも永らえたかもしれない命をみすみす縮めてしまうのに。それでも、母が今際のきわに、それを発信するために命の力を使ってくれたのだと、その瞬間、なぜだかそう思えたのでした。

 それから数か月、私は泣き暮らしました。予定通り月末に仕事を辞めて、弔問のお客様やお花・お菓子の受入などをしながら、ふと母を思い出しては泣く暮らしを続けていました。なんといっても、うつ状態の私を無償の愛で支えてくれた母です。そんな愛情エネルギーの供給源を喪って、どうやって私は生きていくんだろう……そんな風に思っていました。1か月経ち、2か月経ち、私はだんだんと不思議に思い始めました。私はまだまだ泣き暮らしていました。ですが、嘆き悲しむという行為はとても疲れるのです。身体は重たくぐったりします。それなのに、3か月経っても、こんなにも身体を疲労困憊させる悲しみのエネルギーは、枯れ果てることがない。それどころか、まだまだあふれ出てくる気配がする。母はもういないのに。このパワーはいったいどこからやってくるんだろう??何より、泣いている時の、この生きている命を感じている感覚。嘆き、悲しみ、泣いている私の、このパワフルさはいったいどうしたこと??母はもうこの世にはいないのに!
 そして、ようやく私は理解し始めました。どうやらこれはもう、母のエネルギーじゃない。私自身が母を大好きな気持ちの分のエネルギーなのだと。それは自分が思うよりもはるかに大きく重たく、力強いようだと。生まれる前からずっと母からもらっていたものが、私の中で育っていて、そして、母が居なくなってももう、私の中から無くなることは無いのだと、ようやくわかったのです。
 母の死からしばらく経って気持ちが落ち着いてくると、母の死に際の無言のテレパシーのようなものも、疑問がわいてきました。あれは白昼夢か、ただの思い込み?母と話したかった願望から私が創り出している幻の記憶なんじゃない?母の死の直後には無根拠に確信を持って信じられていた感覚が、時間が経ち、日常の常識の感覚を取り戻すにつれて、信じられなくなってきました。それでも、涙はとめどなくこぼれてきました。実際にこぼれてくる涙は疑いようがありませんでした。これが私の愛のエネルギーなら、母の愛がテレパシーにもなり得るのかもしれない。母が最期の命を削ってまでメッセージを伝えてくれたんだと信じたい。これこそが、私が生まれて初めて、世間一般の常識よりも自分自身の不思議な感覚を信じた最初の体験であり、母が死という一生に一度のチャンスを使って私へ贈ってくれた大切なプレゼントなのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?