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かさなって、とけてしまいたかった

それなりに豪華な食事が目の前に並ぶ。ワイングラスに好みのワインが静かに注がれる。

「乾杯」

豪勢な食事とは裏腹に、どこか寂寞を感じさせる声色。カチャカチャとナイフとフォークが当たる音が、よく聴くと急かされた時計の秒針のカチカチと進む音にも似ている、と考えた。目の前の食事については何もコメントがない。いや、‘’ない‘’のでは無い、コメントする気がないのかもしれない、と考えを巡らせる。



会話が弾んだところで、もうそれ以上先になにかある訳でもないのに。カチャカチャと秒針が進む。そういえば人類の終末時計はもうどこまで進んだのだっけと思い返すが覚えていない。


カチャカチャ、カチカチ、カチャカチャ、カチカチ


言葉を発さない、この空気に今まで耐えられなかったことはないのだが、ついに、初めて、耐えきれずワインに救いを求めるように手を伸ばす。赤い液体が照明に当たり、血がグラスの中で波を打つ。通(つう)ぶっていると思われたくないので、揺らすのはそこそこに口の中にワインを含む。そして飲み干す。

アルコールが入ってきたことに脳が歓喜し、目の前の景色のコントラストが強くなる。鮮やかな色がぐんぐんと目を貫いてくる。

そして気づく、相手がいるのだったと。今の今まで自分は食事とワインしか見ていなかったと。

目の前の相手をちらりと窺う。
そこには少しお洒落した恋人がいる。


もう一口、血を口に含む。そしてゆっくりと飲み干す。
また一口、もう一口。


コントラストが強くなる一方で、恋人の姿を目に入れるだけで涙が込み上げてくる。視界がぼやける、目の中で波がたつ。もう認識している景色は全てゆらゆらたゆたう。


また一口、ワインを含んだ。


こんなにもゆらゆらの世界で、このような素敵な恋人に出逢えたことは奇跡かと、アルコールの熱の中に交じって感動が込み上げてくる。なにか伝えなくては、この感動をなにか一言でもいいから伝えなくてはと焦燥感に駆られる。例え相手にこの感動が1ミリたりとも伝わっていなくとも、伝えたい。伝えたい焦りはワイングラスに付いた水滴のようにじわりと心のうちから滲んでくる。

しかし適当な言葉が浮かんでこない。
また一口ワインを、血を含む。

こんなふうに恋人を食すことが出来たなら、一つになれたなら、こんなに永いこと寂しい思いをしなかったのかもしれない。

カチカチ、カチカチ、カチャカチャ

部屋で秒針が大きく鳴っているのか食事の音なのか区別がつかなくなってきた。普段氷のように冷えている指先も、足先も温かい気がしてきた。

恋人に視線を遣ると、乾杯のようにかちんと音を立てて目が合った。こんなに素敵な人が自分の恋人だなんて信じられない、また考えが戻ってくる。そしてその感動を瞬く間に寂寥が攫っていく。

どんなに思考が似ていても、趣味が合おうとも、ひとつに混ざりあえないという悲しみの波が覆い被さってくる。人は皆、己と、それ以外なのだ。

絵の具は赤と青を混ぜれば紫になるというのに。
私たちはいつまでたってもマーブル模様でしかなれない。
この肉体さえなければと考えてしまう。恋人はどう思うのだろう、マーブル模様か紫なのか。

そしてやっと、口を開こうとしたとき口内がかわいていることに気がついた。
そっと赤いワインを口に含む、じわじわと潤すようにゆっくりと嚥下した。気づくと声が出ていた。

「人って、他人と混ざりあえると思う?ひとつになれるというか、溶けてしまうような、、自分と他人の境目がないというか……」

しまった、どうして、やっぱり、ご飯美味しいねなど単純な話題にしなかったのだろうと後悔が襲う。後悔から、もう恋人の姿を目に入れるのが恥ずかしくなってしまった。穴があったら入りたい、とはこういうことなのかと実感する。


カチャカチャ、カチャカチャ、カチカチカチカチ。


自分は食べ終えてしまった。
ボトルからなみなみとワインをグラスいっぱいに注ぐ。
もう前を見ることが出来ない。恥ずかしい。
一口、また一口、そしてまた一口。ついつい飲んでしまう。


「あっ」


声が出た。テーブルに置いていたボトルに手が当たり倒れた。
テーブルクロスに染み込む赤い液体。
テーブルクロスの春のふんわりとした薄い空のような水色を織り込んだ色は、恋人が選んだ。テーブルクロスに血が染み込む。吸い込まれていく。布だもの、液体は吸い込むよねと、白い布巾でポンポンとテーブルクロスを叩く。

吸い込まれた部分は血と混ざって、なんとなく紫色に見えてくる。ポンポンと拭き取った布巾には赤い色が着いている。テーブルクロスの大部分はワインから救われたようで水色を残したままだった。

布巾で染み込んだワインを拭き取る動作を、何故か止められない。目の中に海が戻ってくる、たゆたう涙は正しく波。
ぽんぽん、ポンポンとテーブルクロスを布巾で拭う。


「紫にみえて、まざりあえない、そんなものだよ」


そう肩を叩かれた気がした。テーブルの向こうの写真立ての中でお洒落している恋人は微笑んでいる。波のせいで歪んで見える。

光の、プリズムは知っているだろうか。と心の中で反論する。
重ねれば、色は混ざるのだよと。

やっと拭き取る動作を止めることが出来た。また座り直す。
恋人、もとい妻は親友にして最愛なる人だった。

彼女と混ざり合えていたら、と何度思っただろうか。
死ぬことを試したが死ぬ事は出来なかった、そういう身体なのだから。永遠を生きる私と、一瞬を生きた彼女は混ざりあえなかったが、重なり合う事ができた。

人間の食事は、食べていても面白みがない。
そう思いなおし、席を立つ。

冷蔵庫から赤い液体を出すと、いつも手が震える。
食事だと身体が勝手に反応する。これはただの本能。

パックを開封しグラスに注ぐ。
なみなみと注がれたワイン色をしたその液体を、血を、飲み干す。

空腹が満たされる。こころが寂しいと泣く。

彼女とすごした60年間を、甘美で、優美なあの日々を、
もう一度、もう一度でいいからと渇望する心。
彼女と重なって、溶けてしまいたかった。

彼女と出会って100回目の彼女の誕生日は
アルコールの所為か酷く熱く、寂しく、
これからもまだ生き続ける私には酷なお祝いのように感じた。

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