お盆も終わってしまって、いよいよ世間の夏休み気分も抜けてくるころ。
私はほぼ何もしていない。
家で普段よりちょっと手の込んだ料理をしたくらいか。
ただ、お盆に気づいたことが一つある。
野菜を切るのは難しい。
基本的に、具材は火の通りが均一になるように
同じくらいの厚さ、体積になるように切り揃えるのがセオリーだ。
わかっているが、私はどうやら出来ていないらしい。
例えばたまねぎを一玉、1㎝四方程度の大きさに切るとしよう。
みなさんならどうする。
ちなみに私はまず半分に切る。そのあとそれぞれの半玉を更に縦に切り、また半分に切る。
今度はそれを横向きになおしたら半分に切り、同じようにまた半分に切る。
簡単に言えば半玉を16等分するような切り方だ。
ただ、玉ねぎは球体なので、上から見る長さで等分したと思っていても、実際の大きさには真ん中と端で大きなばらつきがある。
それに玉ねぎを見たことのある読者の方ならお分かりかもしれないが、玉ねぎはきれいな球体でないことが多い。
つまりそれを考慮して、端は更に横に倒して四角になるように切るなどしないと全体の大きさは揃わない。
こんなことわざわざ言葉にしなくたって自然とできることらしい。
しかし私のように出来上がった完成品を見て「あれ、大きさが全然違う」となる人もいる。
そもそも等分に切る、ということができなければこの技術を実践することは難しい。
半分に切る、は一回だけの作業なので簡単かもしれないが、1個の玉ねぎを四角に切る、といったことをするには全体像を把握して切らなければいけないのだ。
そう、この全体像をざっくり把握する、というのは案外できない人が多い。
かくいう私もそのうちの一人だったというわけだ。
なかなかにショッキングな事実である。
料理スキルがない、という話ではなく、等分をする能力がないため、そもそも難しいという話なのだ。
もちろん意識して訓練をすれば少しはできるようになるかもしれない、が
今まで無意識で行っていた(不揃いな切り方をしていた)のを「等分になるよう全体像を見極めて…」という動作自体を、コツを習得するように簡単にできるようになるとは到底思えない。
しかし振り返ってみると、確かに私の包丁捌きには、少し変なところがあるようだ。
不揃いなものが最終的にはできてしまうのだが、切っている私の挙動は一見すると、とても丁寧である。
丁寧というか、細かい。
動きがぎこちない。毎回逡巡している。
これはものを切るときに、同じ大きさにはしようとしているものの、一回一回でそれを考えながら切っているため、極端に言うと、一個前の動作で切ったものと同じ大きさのものを生成しようとする、という動きを複数回繰り返している。
切るたびに切ったものの大きさを見て、次のカットの幅を決めて切っているため、動きは遅いし、結果的に最初に切ったものと最後に切ったものの大きさは異なっていることが多い。
つまり最後余分に大きかったり小さくなってしまう部分が高確率で出るのだ。
全体像を見てあたりをつけて動作に入るということは、野菜を切ることに限らず、あらゆる場面で大事だと思う。
思い返しても、私は人生の生き方が全部この玉ねぎに集約されている気がする。
一個一個の仕事やイベントに向き合う姿勢は真剣なことも多いが、全体見て配分をしていないので結果的にやりたかったことが出来ていない、ということはよくある。
何のためにやっているのか
何が一番大事な目的なのか
それを分かったうえで動き出さないと、意図した結果と違うものが生まれてしまう。
全体像が見えていれば、途中の過程に細かいミスがあっても、目的から大きくそれることはない。
そして軌道修正も容易だ。
20代からの時間は一秒も無駄にしたくない。
全体を見通して生きていきたい。
そう思ったら、目の前の玉ねぎが切れなくなってしまった。
おわりに
今週は生糸が担当しました。
みなさんは何をして過ごしましたか。
お盆はまったり過ごすに限りますよね。
よく料理、運転ができる男は○○も出来る的な定説って沢山ありますが、
どっちもできないので、何故かあらゆることが不得手なように感じてしまいます。
でもあきらめるな、自分!!
でもぶっちゃけ玉ねぎは不揃いでも問題なさそう。
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来週はおリンが担当の予定です。お楽しみに…!
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