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mixiでの日記を供養するnote

きっと誰にも、犯してしまった過ちを思い出して、のたうち回った経験があるだろう。僕はしょっちゅうある。なんなら毎日のことだ。

「昨日の飲み会で、なぜあんな暴言を吐いてしまったのか」と直近の出来事を悔やむこともあれば、「なぜ10年前の自分は、慣れない合コンに浮足立ってあんな失態を…」など、ずいぶん昔の恥をリフレインすることも多々ある。髪を洗い流すシャワーの音でかき消しながら、あるいは分厚い布団の中で芋虫のようにうずくまりながら、声にならない声を発して悶え苦しむのはもはや日課になっている。

そんな不毛な行いを繰り返していたある日、いつも振り返る思い出たちよりも大物の恥と出会ってしまった。その恥とは、かつて自分が書いたmixi(ミクシィ)の日記である。

■mixiはパンドラの箱(個人の見解です)

10年以上前のブームなので一応説明しておく。mixiとはゼロ年代後半に流行したSNSの一つだ。当時は完全招待制で、友人同士が集まって50人から100人程度のやや小さいコミュニティを作るのに適していた。高校や大学の仲間といった近しいつながりの中で、穏やかに語り合う牧歌的なSNSだった(と僕は認識していた)。ちなみに僕が利用していたのは大体2006年から2010年ごろ、大学生から駆け出しサラリーマンにかけての時だった。

mixiのサービスの一つである「日記」機能とは、友人だけに見せるブログのようなものだと考えてもらっていい。形態は今のブログやnoteとそう変わらないが、前述の通り友人たちのコミュニティに見せる前提のものだ。当時は友人同士で日記を公開してコメントを書き込み合うのが流行っていて、僕もそれに乗っかり不定期ながら時々日記を書いていた。

改めて日記を見返そうと思ったのは、ある友人が「久しぶりにmixiを開くとおもしろいぞ」と教えてくれたのがきっかけだった。とはいえ「昔の日記なんか読んで、そんなにおもしろいだろうか?」と最初は半信半疑だった。あれだけ毎日セルフ反省会をしているのに、mixiの日記なんて思い出したことがなかったから、それほどでもなかろうと高を括っていた。

ところが、当時の会員情報を掘り出してmixiを開いてみた直後から、心臓を締め付けられるような息苦しさが収まらなかった。日記の内容がとても恥ずかしい。自分のイタさに唖然とする。読みながら飲んでいたコーヒーをマーライオンのごとく垂れ流してしまいそうになった。

書き出しの一文から既に恥ずかしい。いくつか抜き出してみる。

ちょっと太りました。

(2006年2月1日)

知らんがな。モテない大学生が太ったかどうかなんて誰も興味がない。友人からの「そんなことないよ」待ちでもしていらっしゃる?

どうもこんばんは、ちょっとダーク寄りです。

(2006年7月10日)

「知らんがな」に加えて、イタさが腐臭のごとく漂っている。こんな感じの2chコピペありませんでした?

(前日の日記がコメント返信ゼロだったので)
おぉぉ、結構長めの日記書いたのに、コメントがゼロだぜ!(挨拶)

(2006年10月23日)

あかん、イタさのあまり泣けてきた。友人たちに構ってほしくてしょうがなかったのだろう。どんだけ寂しかったんだ。

上記はほんの一例に過ぎない。改めて読み直すとひどい箇所は他にもあって、とてもお見せできないほどだ。日記の数だけ恥ずか死ぬ。

事程左様に、mixiは魔窟。いやさ、パンドラの箱なのである。

年末年始に昔の写真を振り返るよりも刺激的な体験をしたければ、実家のパソコンに眠る当時のmixiを掘り起こしてみると良いのではないだろうか。

■無自覚にリセットを

mixiの日記を読み返すのはかなりの苦業だったけれど、恥をさらす目的でnoteを書いたのではない。思うところがあったからだ。

12月、「人間関係リセット症候群」に共感する、あるツイートがバズった。
(発端が個人アカなのでここにリンクは貼りませんが、気になる人は同ワードで検索したらTogetterなどが上位に引っ掛かると思います。ちなみに以前もこのワードでバズったことがあるようです。)

「人間関係リセット症候群」とは、ほぼ読んで字のごとしだが、自身の人間関係をなかったことにしてしまう行動をとってしまう、一種の精神的な傾向のことを指す。具体例で言うと、ある日突然SNSやメール・電話のつながりを断ち切るなどの行動が挙げられる。「症候群」とついているが病気の類ではない。人付き合いのやり方や考え方の話である。

このバズ現象を見て、ボタンを押せば問答無用で人間関係を清算できると思える発想がとても怖いと思った。その時の僕は、「決して自分はこんなことしない」という前提に立ち、高みの見物を決めこんでいたように思う。

しかしその一方で、なんだか気まずい感情も抱いていた。関連ツイートの観察を終えた後も、ばつの悪さは居座り続けてなかなか消えてくれない。その正体を考えるべく色々振り返っていると、自分にも思い当たる節があると気づき、背筋が寒くなった。

例えば、初めてスマホを買った2010年のことだ。当時手に入れた初代Xperiaはキャリアメールが使えなかったため、gmailのアドレスに変更する旨を電話帳に登録してある友人たちへ連絡した。すると結構な割合で弾かれた。当時はgmailを受け取れない設定のガラケーも多かったのだ。

ただ、たとえそんな事態になったとしても、共通の友人を介して連絡を取り合うとか、やれることはあったはずだ。しかしながら当時の僕は弾かれたアドレスを追跡するのが億劫に感じ、そうした対応は一切やらなかった。その結果、連絡がとれなくなった友人が大勢できてしまったのだ。

他にもある。仕事を辞めて東京から離れることになった2012年。当時は、大学の同期や年の近い先輩後輩、会社の同僚たちなど、大勢の友達に恵まれていたはずだ。しかし、退職を決めるのとほぼ同時に東京を離れる選択をした。送別会をしてくれた友人たちとは今でもつながりがあるけれど、あれきりずいぶん連絡をとっていない友人たちも大勢いる。

自力でリセットボタンを押したことは一度もないと思う。しかし、状況に流されるがまま、消極的な生活を過ごす中で、結果的に人間関係をリセットしていた。自覚がなかった分だけ、よりタチが悪いかもしれない。その事実に気づき、頭を殴られたような衝撃を感じた。

■悶え苦しんだ分だけ

mixiの日記を振り返ったことで、そんなかつての自分の行いと対峙することができた。まさか自分が「人間関係リセット」をナチュラルにやっていたなんて思いもしなかったけれど。

ただ、改めて読み直すことで気づかされたこともあった。先ほど挙げたようなどうしようもない僕のコメントに、丁寧に返事をしてくれた友人が大勢いたのだ。

にも関わらず、ちょうどmixiの日記を書かなくなった2010年から数年間で、僕は人間関係をリセットしてしまっていた。改めてそれがいかに悔やむべきで恥ずべき行いなのか、僕は過去を振り返ることで自覚したのである。

疎遠になった友人たちとまたつながるのは簡単ではないかもしれないし、案外誰も気にしていないかもしれない。どちらに転ぶかわからないけれど、自分がこれからやるべきことがわかってきた気がする。それだけでも、恥を忍んで過去と向き合った価値があるのかもしれない。

人間関係をリセットするのではなくて、人の縁に感謝できるように。これからはそんな風に行動したい。極めて出不精な自分を鼓舞できるようになったのは、ここ1年で成長したところなのだと思う。きっと悶え苦しむ回数は増えると思う。しかしそれは人間関係を大事にするがゆえにもがいた証なのだから、大事にすべきだろう。

最後にもう一言。2022年は夜中にうめき声が響き渡る怪現象が、今まで以上の頻度で起こる可能性があるから、この場を借りてあらかじめご近所さんに謝っておこうと思う。なるべく静かにしますので何とぞご容赦ください。

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