回想録 10才ロールシャッハテスト

幼い頃からよく病院に連れて行かれた。
肉体との不調和には多くのエネルギーがとられたし、いつも体調は悪かった。

(寝かせておいてくれたらいいのに)

母はそれを許さなかった。 
そこしれず感じているわたしへの気持ち悪さや違和感を、権威ある誰かにはっきりと認めてもらいたかったんだ。

耐えがたいよね、そうだよね。その気持ちは理解できる。

具合のわるい身体で連れまわされるのは辛かった。後になってわかったことだが、わたしは重度の薬剤アレルギーで、飲まされる薬でまた、何度でものたうちまわった。

フラッシュバックの閃光のような頭痛は繰り返し、前生と今生の境はなかった。肉体との連携は難しく、何かを食べると後悔するほどの痛みがきた。わたしにとって、生きることは痛いことだった。

何か現実に形ある、何かの診断を付けたくて、多くの病院で多くの検査を繰り返し受けさせられたが、何もはっきりとはしなかった。

10才の頃には、37〜38度くらいの熱がずっと続くようになっていた。

病院の検温では起きている分上がるから、39度は普通に出た。病院を変わると、「いつもこんなに高いの?」と驚かれた。測り間違えたと思われる低すぎる血圧と。

「貧血でもないんだな、、、」
検査の数値をみながら先生は言った。
 

「体温を毎日何度か測って表をつくるように」という先生と、「それがあなたの普通なんだから、それで問題はない。検温したらかえって悪い。気にしないこと」という先生がいた。


最初にロールシャッハテストを受けたのは、大学病院の児童精神医学研究室だった。
母のたっての希望で、担当は室長である教授の先生だった。

ウェーブのかかった髪が腰ほどにある、オペラ歌手みたいにふくよかでどっしりした、落ち着いた声の女性。

病院の廊下の奥にある、防音の効いた厚く重い扉の部屋。

その時間はわたしの安らぎで、一番通じることだったけど、すぐに通えなくなってしまった。

母が先生と揉めたのだ。
多分断罪されたと思う。 
母の思惑とは反対に、わたし ではなく、母が。

わたしは絶望した。細く繋がりそうだった光の糸が消えてしまった。
いま思い返しても、あれは現実の中で一番、魂の座に近い場所だった。

かわいそうだと思う。母が。
母も、かわいそうだと思う。


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