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まずは友情について

友達が一人もいない。

悲壮感あふれる書き出しだが、当人はそれを悲しいことだと思っていない。昔は仲の良いクラスメイトが何人かいて、家に遊びに行ったり、一緒に泊まりの旅行へ出かけたりしていた。あれが友情だったのだろうか。

気心は知れていたと思う。その上でお互いが相手の意思を尊重し合う対等な関係だった。でも、それだけだ。

相手の意思を尊重するのは「ヒト」としての大前提である。それができない相手とは友好関係の前に人間関係を築ける気がしない。機械とか、モンスターとか、自然災害とか、そういう類の扱いになる。

幸運にも僕が出会ってきたほとんどの人が「ヒト」だった。気心が知れていて、相手を尊重できることが友情なのだとしたら、ほとんどの人は条件の半分を満たしていることになる。あとはお互いを深く知るだけで友情が成立するって寸法だ。

世間一般の認識を想像するに、これを友情とは呼ばないだろう。隣人と友人を区別するには、相手のことをよく知っているというだけでは足りないと思われる。

ひとつ思い当たるのは友情という言葉に含まれる双方向のイメージだ。たとえば愛情は一方的に注がれるもので、相思相愛という双方向を表す言葉がわざわざ用意されている。友情はそれ自体が双方向の意味を持つ。

つづく