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隣人でありたい

僕の考える理想の人間関係は隣人である。

聖書の「隣人を愛せよ」とは関係ない。僕は信仰を持たない。自分の心の声を聞いて考えることしかできない。そもそも愛の話はしていない。依存の話をしている。

僕が想定する隣人は貸し借りをしない。採れすぎた野菜をお裾分けしたり、お醤油が切れれて少し借りたり、玄関先まで荷物運びを手伝ったりしても、翌日にはお互いが忘れている。余剰があるから助けただけだ。無ければ頼まれても断るし、助けられる側も気兼ねなく辞退していい。

隣人は干渉もしない。家族構成とか国籍とか職業とか犯罪歴とか全部どうでもいい。とくに興味もないし、世間話で知り得たとしても隣人がとやかく口出しすることではない。相手が干渉してこない限り、こちらから干渉することもない。

家族も友人もすべて隣人の扱いでいいと思う。上司も部下も、お店も客も、年上も年下も、異性も同性も、フォロー相手もフォロワーも、先生も弟子も、総理大臣も大統領も、相手が好意的でも敵対的でも、直接利害の衝突する相手であっても隣人として接したい。隣人として接してほしい。

あくまでも僕と他人の関係について語っている。他人同士が依存しあって生きていくことに干渉するつもりはない。そんな彼らもまた僕から見たら隣人だからだ。

依存しないし、されもしない。干渉しないし、気が向いた時しか手を貸さない。それでも僕は隣人たちの幸せを心から無責任に願っている。