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正義感はいつも

やましいことがなければ実名から個人を特定されても堂々としていればいい。そんなふうに考えていた時期が僕にもありました。危ない危ない。お花畑も大概にしないと世間知らずは身を滅ぼす。

今の日本だと何らかの事件に巻き込まれて容疑をかけられた時点で実家の塀に落書きをされることは想像に難くない。おそらく落書きという想定さえ甘くて生温いだろう。不特定多数から物理的に攻撃され得る状況というのは精神的にも相当にきついと思われるが、その脅威から効果的に身を守る術はない。

冤罪に限らず、本当の犯罪者であったとしても、この国で私刑は許されていないはずだ。

落書きは普通に犯罪である。だとしたら落書きした人の実家もまた落書きされなければ辻褄が合わないが、誰も本気で落書き犯を突き止めようとはしないし、特定できても私刑を執行する人は現れないと思う。

落書き犯は正義の名の下になんとなく許されている。悪者は懲らしめられて当然であり、正しければ法を犯しても良いという不穏な空気を感じる。

行き過ぎた正義感

たまに聞くこのフレーズには攻撃するのはいいが程々にしておけという暴力を容認するおぞましいメッセージが含まれている。

ちょうどいい正義感などない。正義感はいつも行き過ぎている。