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プリンはカスタードに限る

カスタードプリンを食べたいと僕は願う。プッチンプリンではダメなのだと僕は考える。前回の記事で書いたように人間が身体、思考、願望の三位一体なのだとすれば、願う自分と考える自分は別物ということになる。

では、どちらが本体なのか。

三個セットで「僕」を構成しているのはわかる。しかし、SF的な妄想で完全義体化、すなわち身体がすべて機械に置き換わったと仮定しても、僕は「僕」のままであり続けるような気がする。身体はおそらく器にすぎない。

もし、願望が「僕」の本体で、思考を道具として操りながら願いを叶えているのなら、思考もまたソフトウェアに置き換えて完全に機械化できるはずだ。そして、いつでも初期化して再インストールできる。

はたしてクリーンインストール直後の僕は本当に僕なのだろうか。願望ぼくは置き換わっていないので相変わらずカスタードプリンを食べたがっているが、それがプッチンプリンではダメな理由をソフトウェアはまだ知らない。

つまり記憶が失われている。ドラマとかで見る記憶喪失のレベルではない。今でも産湯に浸かった記憶などは到底思い出せないが、それより以前の記憶から完全に初期化されているのだ。

それはもうカスタードプリンが好きなだけの別人だと思う。