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古典文学に見る季語の源流 第三回「帰る雁」「山笑ふ」

春の季語「帰る雁」は、俳諧の式目・作法を初めて印刷・公刊した『はなひ草』(一六三六年)にもすでに取り上げられている。和歌の世界では古くから馴染み深いテーマであった。

雁は、『万葉集』では主に「雁が音」という形で登場する。昔の人々は、動物の鳴き声を妻恋いと解釈し、切ないものだと受け止めていた。万葉集に詠まれるのは、ほとんどが秋の雁の哀しげな鳴き声だ。

春の雁として注目されるのは、巻十九、『万葉集』の最終編者でもある大伴家持の歌、

春設(ま)けてかく帰るとも秋風に黄葉(もみた)む山を越え来ざらめや

燕来る時になりぬと雁がねは国偲ひつつ雲隠り鳴く

帰る雁を見上げて詠んだ実景の歌である一方、教養に由来する歌でもある。漢詩ではよく雁と燕が対で使われる。魏の初代皇帝・曹丕が秋を詠んだ漢詩に〈群燕 辞し帰り、雁 南に翔び〉という句がある。

また、当時、越中の国司として暮らし、都に帰る日を待ちわびていた家持は、行く雁に自分を重ねていたのだろう。雁に自分の境遇を重ねるというのも、漢詩でよくある姿勢だ。

これ以降で注目される歌に、『古今和歌集』の女流歌人・伊勢の歌がある。

春霞立つを見捨てて行く雁は花無き里に住みや慣らへる

春が来てこれから桜が美しく咲くというのに、それを見ないで帰ってしまうとは、雁は桜のない場所に慣れているのだろうか――彼女がそう詠んで以降、歌壇では雁と桜を組み合わせる例が増えた。

見れど飽かぬ花の盛りに帰る雁なほ故郷の春や恋しき
(拾遺集、読人しらず)

折しもあれいかに契りて雁がねの花の盛りに帰り初めけむ
(後拾遺集、弁乳母)

この流れを踏まえ、江戸初期の俳人・松永貞徳は〈花よりも団子やありて帰る雁〉と諧謔の句を作っている。

伝統の長い「帰る雁」と対照的に、俳句独自に発展したのが「山笑ふ」である。春の山の明るい感じを擬人的にいう表現だ。

これは郭煕(かくき)の〈春山淡冶にして笑ふが如く、夏山蒼翠にして滴るが如く、秋山明浄にして粧ふが如く、冬山惨淡として眠るが如く〉に拠るとされる。郭煕は中国の北宋時代の画家で「早春図」(故宮博物院蔵)などで知られる。これも、山水画の描き方を語る文章中に出てくるフレーズで、彼の息子の編んだ『林泉高致集』、南宋の呂祖謙編の『臥遊録』に載る。

江戸時代に俳諧を楽しんでいた層は、漢詩や山水画など、中国文化への関心・造詣も深かった。そうした教養を披露する意味でも、「山笑ふ」が俳句の世界に取り込まれていったのであろう。

いろは順で季語を並べた『俳諧通俗誌』(員九編、一七一七年)に登場してはいるが、江戸時代の作例は少ない。大島蓼太の句集(一七六九年刊行)の〈筆取りて向かへば山の笑ひけり〉、京都の俳人・子曳の一七七一年の句〈笑ふ山見返る雁の行衛かな〉などがわずかに見られる程度である。

広く使われるようになったのは、種田山頭火や芥川龍之介に影響を与えたとされる井上井月(一八二二~一八八七)の〈山笑ふ今日の日和や洗ひ張〉、また、正岡子規の〈故郷やどちらを見ても山笑ふ〉などが出た後である。つまり、近代になってから定着した季語なのだ。

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