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古典文学に見る季語の源流 第一回「はじめに」「人日・若菜・七草粥」

「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集にこれ有り候。」
 あまりにも有名な正岡子規の文章である。子規が『歌よみに与ふる書』でここまで宣言せねばならなかったのは、それだけ『古今和歌集』の影響が深かったことの証明であって、子規自身も、「実は斯く申す生(=自分)も数年前迄は古今集崇拝の一人」であったと認めている。
 また、私がカルチャースクールで百人一首を講じていたとき、受講生から、
「辛気臭い恋の歌ばかり。もっと幸せで楽しい歌はないんですか」
と質問されたことがある。実はこれも『古今和歌集』の仕業であって、この勅撰和歌集の恋の巻が、

・巻一 男が女を見初め、片恋に苦しむ歌
・巻二 文を送るも対面の叶わぬ懊悩の歌
・巻三 逢瀬叶うも満ち足りず寂しい歌
・巻四 倦怠期に入り、相手の不実を恨む歌
・巻五 恋が終わった後の嘆きの歌

と編まれ、その後の勅撰和歌集の多くでこの路線が踏襲されたことにより、古典の歌壇では、切ない恋歌ばかりが詠まれるようになったのである。『万葉集』に遡れば、幸せな恋の歌も多数存在する。

 このように、歌や俳句の世界で自明、常識とされていることは、あるタイミングで生まれたものである。
 現代においても、歳時記が改訂される際に、時代に即した新しい季語が追加されることがあるが、今日当然のように歳時記に陣取っている季語も、どこかで見出され、季節感の象徴たる役割を担わされるに至ったのである。
 なお、日本での歳時記の祖は北村季吟の俳諧季寄せ『山乃井』(一六四七年)であるが、それ以前から和歌・連歌の世界において、それぞれの時季の風物として確立していた語は多い。本稿では毎回、江戸時代以前の古典文学を紐解きながら、ある季語概念の歴史を考えたいと思う。

 随分と前置きが長くなってしまったので、今回は簡単に、新春の行事に関する季語について。
 一月七日の「人日」の節句には、芹・薺・御行・繁縷・仏の座・菘・蘿蔔の七種の「若菜」を「七草粥」で食べる習慣がある。この「人日」「若菜」「七草粥」は、今日では、ほぼ一体化した季語として受け止められているが、そもそもは複数の行事が合わさったものだ。
 人日の節句は中国から入ってきた。前漢の時代、東方朔の占いの書に、一月一日からの各日、一日は鶏、二日は狗、三日は羊、四日は猪、五日は牛、六日は馬、七日は人を占うこととする、とあるのが、人日の名前の由来だと見られている。また、このとき、七種類の野菜を入れた羹(吸い物)を食べる風習があった。
 また、それとは別に、日本にも若返りの願いをこめた風習として、正月の初子(はつね)の日の遊びとして、小松引きや若菜摘みを行い、若菜を羹にして食べていた。
 万葉集の巻頭、雄略天皇の御製にも「菜摘ます児」が出てくるし、八世紀前半には、朝廷の習慣として若菜摘みがなされていたことが、宮廷歌人・山部赤人の歌から知れる。

明日よりは春菜採まむと標(し)めし野に昨日も今日も雪降りつつ
(万葉集、巻八、一四二七)

「標めし」とは、朝廷の若菜摘みに使う野に、他の民が入らぬよう印を付けたことを言う。
 この風習が日付の近い人日と合体して発展していった。さらに民間に広まる中で、七草粥の習慣となったのである。

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