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鍋島茂治公 〜たっちゅうさん〜 序章

序及梗概

 鍋島助右エ門茂治公は、今の佐賀県藤津郡塩田町の久間(古記録には「久摩」ともあり)城主であって、鍋島弥平左エ門信房の二男として戦国時代に生を亨け、龍造寺隆信公とは義理の甥に当たり、父信房公と共に活躍し、島原沖田原の戦で原家一族討死するや、久間城主として藤津軍士の総帥の父信房に従い、久間領を治め、或いは神代の城番となり、遠く挑戦の戦に従軍し、佐賀本軍のために大いなる勲功を表わし、また加藤清正公の苦難を救うなど、幾多の軍忠は抜群にして、人となり武勇・着実・剛毅・正義を愛し、古武士の風格があった。
 不幸にも、長女の結婚問題について不行届を生じ、その責めを負い、長子織部公と共に、慶長十八年十月十三日、切腹を命ぜられ、主従合わせて二十人、ひたむきに慕い奉る殉死者と共に、壮烈無比、従容自若として死に赴いた。
 由来、佐賀においては、葉隠精神として奉公至誠、正義の精神に立つを教訓として、葉隠聞書は受読されて来た。茂治公のこの事件が、葉隠にも記載してあることは武士としての亀鑑はかくあるべきだと、暗に示唆している感がある。
 蓋し、塩田町久間にタッチュウさんの墓がある。茂治公一族を当時の関係者が手厚く供養した墓である。また、茂治公は武人の面目躍如たる一面、久間郷土に善政を布き、郷土民から慕われた城主でもあったので、塩田町におかれても、ゆかりの其処を整備され、史蹟として、新たにそこを認識し、顕彰される意味で、過ぐる昭和三十八年四月二十四日、工事竣工記念式典並に追善供養の儀が現地にて荘厳かつ盛大に挙行された。郷土史上からも洵に喜ばしき限りである。
 依って茲に、この意義ある行事を永久に記念するために、茂治公の伝記を編み、以って、故きを尋ねて新しきを知るよすがとなさん。
 この伝記を編するにあたり、前塩田町長永石一郎氏、教育委員長大曲貞一氏、教育長林又男氏、塩田町教育委員会、塩田町当局、同町志田陶磁器株式会社社長小田寛雄氏、その他地元の方々のあたたかき御好意を寄せられての御協力、また、佐賀市の鍋島直共氏(長崎大学教授)の貴重なる調査研究及実施踏調査等の有力なる資料の提供や、原稿整理、編集、校正などにも加勢を戴いて、本書の編纂刊行に大きな力を得た。また毎日新聞社からは、同氏を通して、記念写真二葉のお恵贈と、更に同社及び佐賀新聞社からは、竣工式並びに追善供養に因む新聞記事掲載の絶大なる御後援にあずかり、小著刊行の意義を更に深めていただき、実に感謝感激に堪えない。
就いては、今後新しき資料、調査、研究などに依って、補筆すべき点も幾多出てくることだろうと思うが、それは後日に俟つことと致し、ひとまず、草稿を綴じて一冊とした。因みに、文中の系図などは参照の都合上、見易いように故意に重複したところがある。御諒承願いたい。
蓋し、茂治公父子逝いて、正に今年で三五〇年、往きし長き星霜を回顧いたし、感慨無量なるものがある。今茲に、公の三五〇年忌追善供養が鍋島家に依り、厳かに営まれるにあたり、謹んで、このささやかなる「鍋島茂治公伝」を公の霊前に捧げん。
終わりに臨み、各位の絶大なるお力添えを、裏心より感謝いたす次第である。

 昭和三十八年十月十三日
鍋島茂治公三五〇年忌に際して
長崎県神代村(旧佐賀藩領)
郷土史編纂委員長
長崎県佐左町教育長
帆足清勝

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