三日間の交流 【オリジナル版】

ホテルの部屋に荷物を投げ置いてすぐさま飛び出し、クタのメインストリートの夜道を一人足早に歩き始める。
急に暗がりになる大きくカーブを描くあたり、その脇の空地から、ヘイ!兄さん!みたいな呼び声が聞こえる。
その声の主はエンジンを切ったバイクにまたがっている男であった。
夜の悪い遊びをKとTの強い発音の英語を使い誘ってくる。
暗がりで顔が見えないが笑っているのがわかる。
私には別の用がある、と瞬時一言で断ると男はにやりと笑い、
気付かないのか、というように、後ろに座る女を顎で指し下品な笑いを浮かべた。
街灯で男の顔の右半分だけが一瞬照らされた
女は煙草の煙をぷわっと吐いた。
それ以上は相手にせず、そのまま歩きはじめるとすぐさまパチパチと拍手が違う方向から聞こえた。
植込みからその様子を終始見ていた男がいたのである。
植込みは中級の観光ホテルの裏門、男は守衛と見える。
ここまで、私の足音、バイクの男の声、拍手の音、他にはと言えばせいぜい通りがかりのバイクの音、娼婦のくわえた丁子煙草のはぜる音。
その場に発された音はそれだけである。
あの頃のバリの夜は静かだった。

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夜のからかいにあの単発の反応は確かにその守衛にはクールに映ったであろう。
しかし、これは私のバリ初めての一人旅の滑り出しの風景。
インドネシア語などとても酷いものだった。
一言言ってさらにその後が続くボキャブラリなどなかったし、用がある、の目的地もこのレベルでなんとかなる屋台はないのかとびくびく探していたのが本当のところである。

屋台は無事見つかった。
ずらっと並んでいるのでなくわかりやすくここにどうぞ、みたいにしてそこにあった。
客層を見る。若い女性がいる。子どももいる。

よし。

この、よし、の意味はあの人たちが食べて大丈夫なら自分もお腹壊さないだろうの、よし、である。
なんと情けなくズルイ、よし、であろうか。
そもそもどうしてあなたがバリに一人で来たのかと言いたくなる、よし、である。

空いている席に不慣れな者を悟られないよう虚勢を張って座る。
店員がメニューを持ってくるかと思っていると、飲み物は、とだけ無愛想に聞かれ、慌てて英語で、ティ、ティプリーズ!と言う。
何人かのインドネシア人が明らかにピクリとそれに反応した。
薄く出した頼りない茶が運ばれるとそのすぐ後に丼メニューみたいな一品が私の前にボンとおかれた。
ご飯の脇に肉や野菜があれこれのっている。
え?まだ注文していない。
周りの客を見るとみな同じものを食べている。
ここに来るということはこれを食べるということのようである。
一種限定。
商売の鏡のような屋台である。

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さて、一つの難関は会計である。一発で聞き取れるのかどうか。
一つの持論があった。今でも大切にしている。

一発で聞き取れなければ二発目も聞き取れない。

情けないことだが日本でも私はそうである。
バリを呑気に旅行している場合ではない。
ところが、である。この時は一発で聞き取れたのである。
聞き取ったに従いお札を渡すとその計算通りのお釣りが却ってきた。
海外では喜びも悲しみも二倍である。
小躍りして隣の揚げクレープ屋に行き、クレープだけでパーティするのかというほど買い込んで持ち帰り、その夜のホテルの部屋で一人ほくそ笑みながらまだ温かいのをガリガリかじった。

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初めてのバリ一人旅の滑り出しがまずまず順調であったので、翌日も必要以上に早起きしミッションを完遂すべく行動を開始した。
日本人全体の性質だろうか、と逃げておくが、私は旅の前に課題を設けたがる。
のんびりビーチで風に吹かれ写真の多いマガジンでも眺めていればそれでいいのに、それでは時間を無駄にした、と考えてしまうのである。
面倒くさい男である。
今回出発前に「現地人と交流する」と心に決めた。
つい昨夜、屋台までの路上で大変大きな交流の機会はあったのだが、なんでも初球フルスイングがいいというものでない。
私はクタの通りを歩きながら現地人との交流を探していた。
しかし、なかなか現地人との交流は見つからないものである。
なにしろ、限られた滞在時間を考えると早く現地人との交流を探さなければならない。
現地人との交流、現地人との交流、、。
つくづく面倒くさい男である。

さて、日が少し傾き出した頃私はあるカフェに入り昼食をとった。
そのままずっと歩き進めるつもりであったし本当はもっと珍しい店を試したかったが店の中の女店員と目が合って、そのままほぼ直角に店の中にターンした。
気持ちのいいカフェであった。
店は清潔でいかにも人のよさそうな男女が働き、オープンキッチンでは男が一生懸命フライパンを振っている。
素人目に見てもコックがフライパンを振っているというより、たまたまフライパンを振ってコックと言われているというレベルの手さばきではあったが、テーブル上のこれもきれいに作られたメニューを見るとインドネシア,洋食、中華の広いジャンルの料理をカバーしていて、この島が世界に通じた地であることを感じる。
まずナシゴレン、そして一呼吸おいて肉と野菜の甘酢炒めを注文した。

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その日をきっかけにして「現地人との交流」が始まった。
そしてそれは三日間限定の現地人との交流である。
日本に帰ったあともつながり続けるということが当時はなかなか難しかった。
EメールやSNSでの交信手段がないから国際郵便で手紙を往復させる必要があるのだ。
今はEメールがクルクル数秒迷うだけでいらいらする私だが当時国際郵便は片道1か月くらいを要した。さらに到着率は100%ではなかった。
根拠はないが当時は一方向の到着の目安を70%として往復を完了するには半分諦めようということにしていた。
送った段から諦めるなんて不条理を今の時代の人には理解できないであろう。
ただ、この時代を知る私の率直な感覚でいえば、これはこれでよかったのだと思っている。
外国というものは遥か遠くにあって不便だからいいのである。
大きな憧憬の対象であるのだから、遠いどこかにドンと浮かんでいたらいい。
異国を海の遥か彼方に描き思い浮かべる。
こんなに幸せでロマンチックな気分があるだろうか。

私のその後のバリ滞在はそのカフェが行動拠点となった。
暑さにくたびれたら店でしばし涼をとり、また外に出る。
元々が通りすがりの旅行者だから何時に戻るとか気を使わなくていい。
ビーチであった日本人観光客にこの店を宣伝し、その何人かはこの店を利用してくれた。
コックはそのお礼にナシゴレンを御馳走すると言って、いつもより大きなアクションでフライパンを振ってくれた。

店の名はジョーンズカフェという名だった。
しかし、あの時三日間交流してくれたスタッフ全員の名を忘れてしまった。

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カフェにはリーダー格の男がいた。
ジャワから来たということでもう一人ジャワから来たというスタッフの女性がいつも彼の傍にいた。
恋人同士だったのかどうか聞きそびれた。
三十年近くたった今も事実はわからない。
このリーダーがとてももの静かで優しい男でこちらが頼んでいないのに、一日車を出して郊外の田舎の風景などを見せてくれた。
この観光コースはなかなか考えたなというコースで、タナロット寺院など正統的スポットや海外資本の超が二つ三つつくような高級リゾートなども交えてくれた。
その前夜、私のために考えてくれたと思うと、もう私より随分年下になったあの頃の彼に両手で握手しお礼を言いたい気持ちになる。
彼は店のオーナーではなかったが、彼を中心に店は回っていた。
スタッフの人の輪も彼を中心にしているのが見えた。
彼は店の前に立つと絵になった。
これは大切なことだと思っている。
人は自分のステージに立った時、絵にならなければならない。
南国の光を斜めに受け、店の前に立つリーダーを見ながら、いつか自分もあんな風な男になりたいと思ったものである。

帰国前日、カフェの来店者の中に私より少し年上と見える日本人が派手なワンピースをまとった女性を連れてこの店に来た。
彼は会社経営者でジャカルタに出張で入り、数日を利用しここに観光で来たという。
観光客なら私と同じでないか。会社経営者でないこととジャカルタの女性に知り合いがいないことを除けば。
彼から見た私の方が興味尽きないらしくとにかく質問が多かった。
なぜこのカフェにずっといるのか。
なぜこんなに彼らと親しくなったのか。
なぜ英語じゃなくインドネシア語を話そうとするのか。
なぜインドネシアが好きなのか。
私の方の質問はたった一つで、なぜこの美しいジャカルタの女性と親しくなったのか、だが、それは彼女の方に訊いた方がいいかも知れない。
さて、これらの質問に答えながら、なんとも言えぬ不思議な感情が胸の奥からこみ上げてくるのであった。
この数日のうちに自分がインドネシアに惹かれていく気持ちを自分が客観的に聞いているような不思議な感覚であった。
このわずか数日のあれこれ。
単なる通りすがりの私に一生懸命時間限定の交流をしてくれたこの島の人々。
今この目の前で我々を囲む店のスタッフ。
さらにこの店から見える通りを歩く現地人までも、
またさらに見えない他の島のインドネシア人までもひっくるめて無責任に愛しそうになってしまって自分でも心底驚いた。
まだ帰国していないのにもうこの通りのことがこの店のことが一つずつ懐かしい。
この日本人経営者は食事が終ったあとも暫くいてこの店で我々と話した。
ジャカルタの女性も都会的香りのする本当に美しい人で、最初はこんな自分が話しかけてもいいのかと躊躇われたが、実際にはなかなかの冗談好きな女性で、別れるときには到着夜のバイクの男がバイクからずり落ちるくらいの気の利いたスラングをかなり仕込むことができた。

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カフェの中からクタの通りの風景を見ていると時おり人の往来が全く途切れることがある。
それは視界の中に映るすべてが絵のように静止する瞬間である。
そしてそれが現実世界であることを思い出させるようにまた、
優しい風が吹く。
優しい風が先ほどまで静止画であったヤシの葉を小さく二度三度揺らす。
私はこの席から見るその瞬間がとても好きだった。

三日間なんてすぐに過ぎてしまう。
ましてや楽しい時間については。
カフェの皆と別れる時は普通に手を振っただけだった。
ひょっとして彼らはまた明日も私が店に顔を出すと思っていたのかも知れない。
そんな別れ方だった。
リーダーとはどこで別れたのだったか。
いつも彼の傍にいたあのジャワ出身の女性と二人で空港まで見送りに来てくれたのだったか。
それともやはり店で普通に手を振って別れたか。
そこは覚えておかないと。
人間の記憶など本当にいい加減なものだ。
あれから三十年近くたった。
あの店の場所を探したり、あの通りを思い出と重ねながら歩いたりすることはない。
今の私があの暑い中わざわざ思い出を探しに行かなくとも、
あの場所であの時の私とあの店の皆が流行りのポップスのカセットテープを見せ合ったり、辛すぎる料理に涙する私を見て彼らもまた涙して笑っているはずである。
その表ではあの日本人経営者とジャカルタの女性が腕を組みクタの夕暮れの色を背景にデートに出かけるところである。