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小遣い 【短編小説】

ミノルが小学生時代を過ごした公団住宅の向いにマンモス市場と呼ばれていた市場があった。
近所の人に相当頼りにされていたことを想像させるようなスケールの大きな名前だがその実際はごくごく普通のどこにもある市場であった。
しかし、ミノルら子どもたちは学校にはない独特の猥雑さにずいぶん惹きつけられたのである。
そうでなければ買い物もしないのにこんなに多くの思い出があるわけがない。
そこには、いろんなモノがあって、いろんな大人たちがいて、いろんな音が聞こえて、いろんな匂いがあって、いろんな会話があった。
マンモス市場の造りは採光が隅々まで行きわたる事を最初から諦めたような格好になっていて昼間でも奥まったところなど暗かった。
光と影というものは別々に存在するのではなく実は隣り合わせの関係でほんの微妙な加減で入れ替わるものである。
自然の光に頼るその市場内の情景がそのことを小学生のミノルに感じさせ解らせた。

あるプロジェクトのリーダーを受けてチーム員の作った提案書素案をうんうん唸りながら何度も何度も手直しする中年の男がいる。
「サトウ課長。私の奢りです!」と、彼の娘と言ってもおかしくない年格好の女子社員がホットコーヒーを差し出す。
ミノルは自分が少し疲れているように見えているのかとその空気を跳ね返すように明るい声を出した。
「ジュンコさんから差し入れか。今日はついてるなあ。といってもう終業時刻か。惜しいなあ」
ジュンコ社員はフフッと笑って席に座る。
ミノルはコーヒーをすすりながら腕時計を見る。
今の時代は残業禁止。妻に帰るコールでなく会社から帰れコールだ。
ラップトップコンピュータをぱたんと閉じる。

市場の裏に一つ細くて急な階段があった。
一応外と通じて裏口と言えるものであったが買い物かごを持ったご婦人たちはあまりここを使わなかった。
少し暗がりになっているのと階段の作りが歪なためつっかけ履きでは躓きそうになるからだろう。
それをいいことにミノルたちはその階段にひな人形のように縦に座り、駄菓子をかじったり、漫画本を見せ合ったり、メンコを交換し合ったりしていた。
彼らにとってはその場所は重要な情報交換の拠点であった。
その日も、ミノルや友達らがいつものようにその場所を陣取って「情報交換」を行っていると、一人の男が階段を降りてきてミノルたちの中にすっと入り、まるでそこが自分の特定の席であるかのようにだまって座った。
子どもたちは顔を見合す。
この男を見たのは後にも先にもこの時だけである。

ひとまずプロジェクトについて会社としての正式なゴーサインが出た。
長い取引の得意先の新製品開発にミノルの部署が数年前から担いでいるある産地国の農協グループの活動をリンクさせるプロジェクトである。
チームの確保したいのは産地から原料を調達するその役目であるが、コンペで絶対優位に立つためには最終製品の開発さらに市場への展開までのプレゼンテーションを高いレベルで完遂する必要がある。
ミノルのチームの専門を超えた部分の話になるとその専門部署からの指導が必要となる。
指導する立場と指導される立場の関係が生まれ、会社にいる時間は隙間なくあらゆる可能性からのミノルのチームに対する容赦ない指摘、質問の応酬が展開される。
チームメンバーの女性社員などいろいろ抱え過ぎてもう狂いそうだ外してくれと泣きだすものもいる。

「ぼうやたちが羨ましいなあ」
男はぼそっと呟いた。
今思えばその男は30代半ばくらいの年恰好ではなかったかと想像する。
昼間から酒をひっかけてそこへ来たのだろう。そういう口臭がした。それは臭いというより大人の匂いの一つなんだとミノルは思った。
「なんだいそれは」
男がミノルの持っていた漫画本に目を向けた。ずっと欲しかったのを小遣いを貯めてやっと手に入れた宝物だ。
ちょっと見せてくれ、と言われミノルは抗うこともできず降伏するように渡す。
どうかこのおじさんにとってなんの興味も沸かない漫画でありますように。。
「これ面白いのか?」
「まだ読んでないからわからない」
「はは、そりゃそうだ。最近は男の子がこんなかわいい漫画読むんだな!」
男はそれを案外丁寧に扱いミノルに返してから、ほっぺを軽くちょんとついた。

プロジェクトは難航する。
ミノルはそのこと自体にまったく苦しいとか痛いとかの特別な感覚はなかった。
仕事というものはそれで元々なのだと心得ていた。
そこから立て直していく。そこにこそ仕事の本質があり楽しみや喜びの要素すら含まれている。
ただ、いつの頃からであろう、ミノルはなんとなく仕事の中になんとなく違和感を感じ始めていた。
現場の人間より先回りして組織全体が大騒ぎして、想定外の進行に対し、反省だ、検証だ、責任所在だ、危機管理だ、と敏感反応するようになったのである。
それが行き過ぎると却って社内の空気を悪くするのでないかとの心配がミノルにあった。
プロジェクトチーム内にもいかにもピリピリする空気が発生した。
何かあった場合に誰かの責任に転嫁できるように立ち回りを始める輩もいる。その行為がまた不協和音を生みミノルへ投げられる相談や不平が増える。
人間ほどこんなに変化を好み右へ左へ簡単に変異できる生き物はないのではないかとミノルは思うのだった。

「ぼうやたち!おじさんみたいな大人になるんじゃないぞ」
導きのように聞こえるが、これって大人のかっこいい言葉なのか?
なんでも子どもより知っていて、おカネもモノもなんでも子どもよりたくさん持っているはずの大人がなぜ自分のことを下げて言うのか、なぜ大人が子どもを羨ましがるのか、その時のミノルにはまったく理解できなかった。
男の背景から指す光。市場の薄暗い雰囲気。光と影。。
(だいいちこの人は、、)
大人なのになぜ子どもの僕たちのように平日のこの時間にこんなところにいられるんだろう。
自分の父親はいつも夜遅いのになぜこの人はこの時間に子どもたちとゆっくり話ができるんだろう。
一日の終りに一瞬だけこの裏口から市場の奥まで厳しく射しこむ夕日を背に逆光で男の姿だけが色を失い影になった。

プロジェクトは何度か折れそうになりながら、それでもチーム員の粘りで持ち堪えた。
矢面に立ってあちこちで冷や汗や脂汗を拭うミノルを仲間たちはどこかで見てくれていたのではないか。
会社というのは不思議なところで、ああ、もうこれまでか、と立ちいかなくなった時にひとまず一時を耐え忍んでいるとその問題が「自然治癒」することもある。
ミノルはこの状態に触れて、会社というのはだから「法人」というのだ。生きている。
自分がこの生命体のどこを泳いでいるのかはわからないが、明らかに会社を生かす一つの組織には違いないという実感を持つことがある。
死んでいないということは、まだ生きているということだ。
生きているということは前に進むことができるのだ。

ミノルが子どもの時を過ぎ、その後多感な大人子どもの中学生高校生時代に入ってもなぜかあの日の男との風景を思い出すことがあった。
それは郷愁とは違うものであった。あえていうなら「分析」である。
世間の多くの大人が心身をすり減らして働く平日になぜあの男は酒を帯びた状態で子どもと呑気な時間を過ごしていられたのか。
あのひどく酒臭かった男、とても健康には見えない。
あんな怠惰な毎日をあの後も繰り返しているとしたら今なお健康に生きているかどうかも判らない。
子どものストレートな「分析」は経験の十分な蓄積がない分、時にはむしろ大人のそれより冷徹である。
せっかくの無垢な記憶に無慈悲な上書きを平気で行う。
(あの男は負けた男なのだ)

プロジェクトは成功した。
その得意先の重役から直接ミノルに電話があり、ミノルのチームの提案を採択することが正式に決まったと祝福の言葉も添えて伝えられた。
ミノルは電話の相手に深く頭を下げた。
お得意のトップが取引業者の現場の人間にまで配慮を忘れない。この方は相手が何に甲斐を感じるかを知っている。
実際の契約手続きはこれからだから最後まで気を抜いてはならないがまあとにかく今日のところはみんなお疲れさん。せめて今日明日くらいは誰に対してもびくびくしなくていいぞ。
洗面所で一人になって勝った自分の姿を鏡に映す。
自分自身もくじけそうになったが、案外まだ使えるじゃないかこの頭と身体。
少し薄くなった頭をポンと叩いた。

大学生になったミノルはアルバイト代を頭金にし背伸びして買ったスポーティーカーを車道わきの人たちに見せびらかすように流していた。ふと思いついて久しぶりにマンモス市場を通るコースに向けた。
ミノルは車を降り立ち尽くす。
そこは更地になっていた。
ここについこないだまであの日常が確かにあったのだ。
手際よく電球で一玉ずつ傷をチェックした玉子屋のおばちゃん。あの市場内のどこにいても聞こえるだみ声で客に声掛けする八百屋のおっちゃん。商品の埃をしょっちゅうはたきではたいていた文具屋のおばあちゃん。慣れた手つきで肉を摘んで秤にかけて最後に少しオマケする肉屋のおじいちゃん。通りがかると必ず手を振ってくれた豆腐屋のおにいちゃん。
すべての物事は例外なく変化する。
すべてが時を経てこのスポーティーカーのように格好よく高性能になっていく。
少しひんやりし始めた風のせいもあって目の前の有様に少し寂しい気持ちもしたが、ミノルはこの言葉で折り合いをつけた。

朝一番に上席者から呼ばれて会議室に向かう長い廊下。
自分の足音がカツカツと格好いい。こないだ観たドラマでこれと同じ音を聞いた気がする。
ミノルは会議室の前でネクタイを整えて部屋を開ける。
ミノルの直属の上席者の次長、そしてそのまた上の部長、の二人が真正面に座っていた。
「まあ、そこに」
「かけてください」
偉い人がわざわざ二人で言うことかと少しおかしい気持ちがした。
「サトウさん、あなたにはプロジェクト本当によく頑張ってもらいました。相手さんの受けも上々と聞いている。で、、」
「うん、締めの作業もあるが後は私たちに任せてください。サトウさんにはひとまず今回役目を降りてもらい、相当御疲れでしょうから骨やすめしながら来るべき次の準備に取り掛かってもらいたいのですよ。本当に、お疲れ様でした」
ミノルは今この目の前で起こっている状況がどういうことなのか、あるいは自分がどういう立場に置かれているのか十分認識できていた。
チームのまずまずの成果の足を引っ張る抵抗勢力の存在を薄々感じ始めていた。
来るべき次の準備。それは何かのプロジェクトのことを指すのではないことは判っている。
ミノルはこの事態を頭の中でさっとスキャンし分析した。
そして粘っても答えは変わらないとの解が弾かれた。
「かしこまりました。すぐに引継ぎの資料を作り来週の木曜までには関係者に配信します。なによりこのプロジェクトに対しかような評価を頂戴したことは今後の励みになります。さらに精進します。有難うございました」
立ち上がってもう一度頭を下げて部屋から退出し、静かにドアを閉じる。
相変わらずカツカツと格好のいい足音がする。
なぜ負けた男の足音がこんなにいい音をたてるんだろう。
そしてこれから自分はこんなにいい音をたてながら一歩ずつ階段を降りていくのだ。
ミノルは立ち止まり誰も見ていないことを確認したあと、ハンカチを出して目頭を拭う。

別れ際、男はポケットをまさぐり、子どもの目にもくたびれたと判る小銭入れを出して、ミノルらそこにいた四人の子どもたちに300円ずつを数えながら渡した。
「ほれ、小遣いだ」
と初めて大人の言い方をして、続いてもらった子どもたちより嬉しそうににっこり笑った。
「俺が金持ちだから渡すんじゃない。ぼうやたちがかわいいから渡すんだ」
落とさないようにポケットの奥に押し込めとゼスチャーした。
「お母ちゃんにいちいち言わなくていいぞ。幸せは言ったら減るんだぞ」
ミノルはその時なんとなく、この人は寂しい人なのだろうな、と思った。
男は、さあ帰ろか、と言いながら立ち上がって最後に、
「泣いて泣いていっぱい苦労しろ。そしていっぱい幸せになれ」
と言って一人ずつの頭を撫でた。
ミノルは今自信を持って言える。
その時はまったく何とも思わなかった出来事が、その何十年も後大きな励みになることが本当にあるのだということを。

ミノルはネクタイを締め直し、またわざといい音を響かせて長い廊下を歩き始めた。
ジュンコ社員とすれ違う。
「サトウ課長、何かいいことあったんですか?」
「言ったら減るから内緒だ!」べろを出す。