師匠を偲んで
本日公表という形になりましたが、私の学部時代の指導教官が亡くなられました。
語学マニアの方向けに説明しますと、『クロアチア語のしくみ』の著者の方です。
セルビア・クロアチア語、というよりも「ユーゴ」の印象が強いですが、博士論文は現代ロシア語の文法で、ソルブ語辞典の編纂など少数言語にも強く、古ロシア語はじめ文献学にも強く、文学作品の翻訳までこなし(しかも何冊も)、終いには日本ロシア文学会の会長まで務められたというびっくり人間みたいな先生でした。
21世紀にもなってまだ「ユーゴ」と言っているのは弟子である我々にまでうつっていたりします。
私は「印欧語学をやりたいので」と言って大学院からは別の研究室に進学したのですが、学部時代に専門のスラヴ語学(これ、ここでは初めて言及した気がします)の基礎を叩き込んでくださったのが先生です。古ロシア語とかセルビア・クロアチア語とか古教会スラヴ語とか、あまりにも予習がきつすぎて(特にセルビア・クロアチア語)半泣きになりながら勉強した記憶があります。「みなさんよくおできになるので、もうちょっとやりましょうか」が口癖で、その度ごとに大変な思いをするのでした。しかし、やはり語学は苦しまないと伸びないもので、それで正解だったのだろうと思います。
大学院に入ってからは負担の重さもあってほとんど授業には出ていなかったのですが、一度だけ途中で他の学生が出席しなくなってマンツーマンになったことがありました。その時に先生に「何か読みたいものはありますか?」と聞かれて、迂闊にも「古いのが読みたいです!」と答えてしまい、「じゃあ中期ブルガリア語を読みましょうか」となって、白黒の写本の写真と現代ロシア語訳だけを渡されるという事件がありました。血反吐を吐きながら写本とにらめっこする羽目になりました。
指導教官としては、(私とは専門が完全に一致しているわけではないため)基本的には放任で、好きにやらせてくれる先生でした。しかし、卒論の原稿で一度変なことを書いて(というか変なことを書いた先行研究を肯定して)「これ有り得なくないですか?」(原文ママ)と鋭いツッコミが飛んできて肝が冷えたことがあります(もう否定のしようもない反例がありました)。
大学院に進学してからも私の事をよく気にかけてくださり、私の博士論文の審査も担当してくださっていました。予備論文審査の時はまだお元気そうだったのですが、本審査を目前にして、お別れとなってしまいました。最後まで審査の準備をしてくださっていたと聞きました。
私はご病気のことについては何も聞かされておらず、青天の霹靂だったのですが、今からよくよく思い起こしてみると、以前書いた「また入院された」というのは、そういうことだったようです。
今日、なんとなくnoteを見ていたら自分の学部時代の師匠の著書がえらく褒められているのを見かけて自分のことのように嬉しかった。ただ、恐ろしく予習の負担の重い授業をする人だった。研究を進めながらだとちょっと出られそうもないので最近は足が向いていない。とてもお世話になった師匠なので、これからもお元気でいてほしい...のだが先月また入院されたと仰っていた。Bože spasi je...
もともと体の強くはない先生で、以前もボスニアで骨折されたりとかいうことがあったので、また少し体調を崩されたのだろうなとしか思っていなかったのですが、まさかこれが予兆だとは思っていませんでした。コロナで全てリモートになってしまったこともあり、また研究室に行けば会えるんじゃないだろうかという感じで、全く現実感がありません。
ただ、結果論ですが、大学院生活の集大成ともいえる博士論文の提出がギリギリ間に合って、就職が決まったことも報告できたのは、幸運なことだったと思います。先生のお世話になった方はたくさんいると思いますが、学部1年生から博士号取得までお世話になったのはおそらく私くらいのもので、しかも先生がうちの大学に赴任されたのと私の入学が同時だったということを考えますと、私は奇跡的に運の良い人間だったのだと思います。先生、お世話になりました。ありがとうございました。
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