師になるということ
吉田松陰の「講孟余話」に
「妄りに人の師となるべからず。
又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。」とある。
これは、「妄りに人の師となってはならない。本当に教えなくてはならないことがあって、初めて人の師となりうるのである。また妄りに人の弟子となってはならない。師を求める前にまず自分の心や目標が定まって、それに応えてくれる師を求めなくてはならない。」という意味である。
ここ数年、師になることに
抵抗が生じたわけである。
自分自身に、他人に何かを
伝えるような価値はない。
そのような感覚が生まれた
わけである。
これは、自分が教えるべき
ことがわからなくなったということから生じたわけである。
では、自分が本当に教えたいことは、
いったい何だったのか。
これが、中村天風氏とその師
カリアッパの会話の中に発見できたのである。
カリアッパ師は突然、三郎(天風35歳のその当時は三郎と言う名前だった)に尋ねた。
「お前、病が治ったらどうするのか?」
「病が治ったらどうするって?」
「そう、病気が治ったらどうするか、決めているのか?」
「…」
正直言って、三郎はただ治りたい、苦痛から逃れたい一心で、治ったらどうするかは考えていなかった。
虚をつかれた感じで、恐る恐る、「まだ考えていません」と答えると、カリアッパ師は、あごひげを
いじりながら、そうだろうな、と
つぶやいた。
「道を歩いている人に、どこへ行くんですか?と聞いた時、
『わからない。足に聞いてくれ。
ただ右と左の足を交互に動かしているだけなんだ』と答えたら、
お前はどう思う。行き先もハッキリしないで、よくも歩いているなと思うんじゃないか。お前もそれと同じだ。よくも人生の目的を考えずに、日々暮らしているもんだな」
そう言われると三郎は、顔から火が吹くほど恥ずかしかった。
カリアッパ師は遠くの空の彼方を
見つめ、誰に言うともなく、
つぶやいた。
「お前には人生観らしいものが、
何もない。その場、その場を生きているだけだと言われても返す言葉もない。アメリカで医学とやらを勉強したらしいが、逆にその知識が災いして、ちょっと咳をしても恐れ、不衛生だといっては神経をすり減らし、オドオドばかりしてる。
枝葉末節の学問ばかりして、一番
肝心の、『私は何をするために、
この世に生まれてきたのか!』と
いうことを考えていない。
「本末転倒もいいところだ!
それだったら、死んでも仕方がないな。そこから立て直さなければダメだな!」カリアッパ師は言った。
「何をするためにお前は遣わされてきたのだ!そのことを考えたことはあるのか!」
神渡良平「 中村天風の世界」より
「何をするために自分は、
天に遣わされたのか」
結局、師と弟子をわけるのは、
この人生観なのである。
これに気づいているかどうか。
これが天と地ほどの差があり、
師の師たるゆえんがここにある。
ここに至り、自ら本当に
教えるべきことが、
はっきりしたのである。
人生観~この一点に尽きる
わけである。
これを同志とともに追究したい
わけである。
しかし、人生観を教えたいのに、
肝心の自分の人生観が、見えなかった
わけである。
それゆえ、師としての自信が、
まったく持てなくなったわけである。
35歳の三郎と同じだったわけで
ある。
このことは、自らの人生観が
見えたから、気づいたことなので
ある。
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