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人生の生き方の種まき

教育とは人生の生き方のタネ蒔きをすることなり。

真の教育は、何よりも先ず教師自身が、自らの「心願」を立てることから始まる。
「森信三一日一言」より

教師時代、森信三の言葉にしびれたのである。

なぜならば、「教育とは、生き方の種まきをすることなり」と喝破していたからである。

教師は、授業を命とし、授業研究、
教材研究に専心する者を範とする。

そのような空気の中に生きていた
自分にとって、「教育は生き方の種まき」とは、目から鱗の言葉であった
わけである。

そして、また、教育は、まず教師自身が、心願を立てることからはじまる。
この言葉もまた、とても新鮮に感じられたのである。

なぜならば、目の前の生徒の問題点をあげつらい、多々発見することはしても、「まず教師自身が、自らの在り方を問い正す」

このような視点は、皆無だったから
である。

それゆえ、救われたのである。

なぜならば、そこに教師としての
無限の可能性があるように感じた
からである。

しかし、この「生き方の種まき」
とは、決して簡単なことではなかった
わけである。

なぜならば、教師自身が、自らの
生き方に迷い、苦しみ、七転八倒
する。

自らの波乱万丈な経験から、
生き方の原理原則を獲得しなければ
ならないという。
そのようなレベルのことだったから
である。

かくいう森信三も、満身創痍の
傷だらけの人生を送ってきたので
ある。

そうやって、まくべき種を作って
いたのである。

結局は、自分が、「どう生きてきたか」なのである。

なぜならば、生き方には、指導書も、
教科書も、マニュアルもないからである。

それゆえ、自らの実体験から
しか、伝えられないものだからで
ある。

それが、生き方の種まきと
いうことなのである。

「どう生きたら良いのか」
ここに、正解は、ないのである。

なぜならば、昨日まで、正解と思っていたことが、今日不正解に変わったこともある。

昨日まで、不正解と思っていたことが、今日正解に変わったこともある。

人生は、本当に、奇想天外、摩訶不思議なものであり、それゆえ、生き方の種まきなど、死ぬまで、できるはずはないと今では、思っている始末で
ある。

しかし、それでも、なお追究したいのである。
生き方の種まきをしたいのである。

なぜならば、あの時、
「教育とは生き方の種まきである」
という森信三の言葉に救われたから
である。

そして、あの言葉に導かれ、
今もなお、生き方の追究をしている
からである。

そして、いつか、自分もまた、
そのような言葉を発したい。
そう願っているからである。

35歳のあの時、自らの「心願」を
たてることができたからである。

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