蓮實重彦の保守主義

執筆 茂野介里

あまり、こういう読み方をする人間はいないと思うし、おそらく蓮實自身も嫌な顔をするだろう解釈だが、ある意味、彼は保守主義者だと言える。まずこの場合の「保守主義」は、第一に新しいものよりも慣れ親しんだものを肯定する哲学であると定義できる。この定義はイギリスの哲学者マイケル・オークショットに依拠するものである。
二つ目の定義として出てくるのは、それは近代社会が成熟した状態でしか出てこない思想であり、近代社会が始まった頃では封建主義にしかなりえないという定義である。橋川文三は「近代日本思想体系」の前書きで、この点を強調している。二つ目を説明するためには三つ目の定義が深く関わっているので、三つ目を先に定義すると、生活実体を前提にした思想ということになる。なにが正しいかから、演繹して、イデオロギーを規定するものではなくて、まずはじめに具体的な快楽を前提とし、そこから判断を行う。これは福田恆存の思想に依拠したものである。まず生活実体が軟弱な状態であると、保守などというものは存在しない。生活実体という形で意識的に定義可能になる時代状況でなければ存在しないイデオロギーである。いまだ「我々の生活」と「外の生活」という差異を見出すことが難しく、外側に対する視点があまりない封建社会では、保守は存在しない。封建社会がある程度、過去のものとなり、近代社会が前提になった状態で、近代そのものを主義として肯定していく立場に対する否定が保守なのである。これが第二の定義だ。これらの三つの定義があるからこそ、保守は主義ではないかの如く語られる。しかし、生活実体そのものになにを入れるかは個々人で差異はあるものの、この点では一致しており、なにか改革的な物事に対して消極的なのも理解できるということになる。

ここからは蓮實重彦が、この三つの定義に当てはまるかどうかを検証する。

いっけん蓮實重彦は「差異」を強調している映画評論家であるから、これに当てはまらない様に見える。だが、実はそうではない。彼が専門としているフローベールと「凡庸」という彼の好んで使用する概念を考えれば、それが表層的な理解でしかなく、当てはまる定義であることがわかる。フローベールが小説を書き始めたのは、フランス革命が過去のものとなり、二月革命が終焉し、ナポレオン三世によって、パリの近代化が完成されようとしている時代だった。いうまでも無く、ナポレオン三世は、ナポレオン一世に比べれば、華がなく、あまりにも官僚的な政治家であり、ナポレオンと同じぐらいに強権的であった政治家だったと理解されている。マルクスがナポレオンを悲劇。三世を喜劇と評し「歴史は繰り返す、1度目は悲劇として、二度目は喜劇として」といったほどである。つまり、フローベールが生きていた時代は、フランス革命やナポレオンの躍進が終わった後の「祭りが終わった時代」「英雄の存在しない時代」なのだ。では、その様な「ナポレオンではなかった」ナポレオンが、実際に行った政策はなんだろうか。まず初めに彼が行ったのは、パリの街の改革である。いまだ貴族的、古典的な風景を残していたパリの世界をモダンに改革していった。モダンとは、いまだでかい道路を作り、形式的な豆腐のごとき公共施設を建設し、いわゆる味気ない形でパリの風景を改革していった。それからナポレオン三世は、衛生的な都市作りにも励んだ。当時、流行していたコレラ対策として、下水道の整備を行い。不衛生な貧民街を破壊していった。彼が行った政策は、正しくパリの近代化の完徹に他ならなかったのである。近代化とは合理性の事であり、すべての不合理な特権性の否定のことである。だからナポレオン三世は、パリを誰でも使える、有用性だけを残して、それまであった、貴族制度と、その余剰によって作られていた貧民層を解体していったのである。パリは近代化した都市となり、全てのものが不合理で説明不可能なものがなくなりつつあった(それでもなおそれを再帰的に規定する情念は残る)。その様な時代を書き綴ったのがフローベールであった。彼の代表作である「感情教育」は、その様な英雄なき時代のパリの風景を描写した作品である。少なくとも蓮實重彦が、作品を称揚する際に使う「凡庸」という語には、この程度の文脈がある(彼は自分の立場としてあまり語らないのだが)。近代化が完徹していけばいくほど、世の中は凡庸になっていく。しかし、文学を書こうとする者たちは、ある種の「卓越した」聡明さを持とうとするのだ。悲劇や、神といったモチーフ、ポエムという形で綴られる何かを高めようとする言葉。それらに対する否定が凡庸という語には隠されている。
先に触れた様に、保守主義とは近代化がある程度、完徹した状態の中でしか生まれない哲学である。その点でナポレオン三世の登場は、フランスにとっての近代化の完徹であり、これに対する批評(否定ではない)を書き綴ったフローベールの風俗小説には保守性があると言える。そして、フローベールから「凡庸」という言葉を抽出した蓮實重彦にとって、いまだに特権的で普遍的な言説を付与できるであろうと思っている人々に対する否定こそが前提にあるのだ。蓮實重彦が小林秀雄や吉本隆明といった、社会に対する背理として「文学」を特権的に語らしめようとする人々に対する否定をしたのは、これが理由である。社会の外側からなにかを語る言葉がない。言いかえれば、なにか特権的な言説はなく、全てが凡庸なのだとしたら、なにをもって語りうるのか。全てが凡庸であるならば、凡庸な一人の人として語らねばならない。ある種の文学。ある種の哲学のような、全体を説明することが出来る「標語」から語るのではなく、自分の趣味判断から語らなければならない。だからこそ蓮實重彦は映画の立場から何かを語るのだ。彼は正しいからこそ映画を肯定する身振りなどしない。そうではなく、映画を嗜む一人の日本人として、常に映画を擁護する。彼にとっての保守主義とは、慣れ親しんだ戦前・戦後初期の世界を前提とした映画体験を擁護し、溝口や小津を生んだ、日本に対する愛を囁き、そして、ここから生まれる「凡庸」視点から、なにか特権的な身振りで、なにものかを語ろうとする人々や、すべてが合理化されデオドラント化されていく時代の流れを批評していく立場にある。

#批評
#エッセイ