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明治期、阿波藍ギルド崩壊の意味 (2)

 明治維新前後の大きな社会変革の中で、一大ギルドを形成していた阿波藍業界にも、輸入もののインド藍やそれに対抗しようとする国産沈殿藍製造工場設立の動きで混乱期が訪れました。
 本来なら手を携えあって輸入ものの藍染料と立ち向かいたい阿波藍ギルドと国産沈殿藍一派ですが、理想的な活動にはなかなか結び付かなかったようです。



国産沈殿藍工場と阿波藍商の対立

 明治期、阿波藍ギルド崩壊の意味(1)では、大阪に沈殿藍工場を作りビジネス活動を展開しようとした五代友厚について触れました。同じ時期に同じことを考えた人は他にもいて、インド藍流入を阻止し国の産業を守ろうと動いていたことが記録されています。
 新札の顔となっている渋沢栄一は明治21年に、やはり沈殿藍を製造する会社を設立。徳島でも明治20年代に沈殿藍製造の研究と実験が始まり、明治33年に製藍伝習所が作られました。

 一方で1873年(明治3年)に蒅の製造販売が自由化され、大藍師の羽振りの良さに憧れていた人々が一斉に藍産業への参画に走りました。これ以前の玉師株の所有者は多くても1500名前後でしたが、一気に4500名に膨れ上がり、蒅の乱造乱売の時代に突入します。
 これまで厳しく取り締まられ門外不出だった阿波藍の製法が各地に伝えられると、質の良い蒅が阿波以外の地域から産出されるようになっていきました。

 そんな中で、蒅(すくも)を一大ブランド商品に作り上げた阿波藍ギルドは、国産沈殿藍の登場と活動を快く思っておらず、インド藍と対抗するための協力体制を共同で構築することに非協力的だったことが分かります。
 明治8年、藍商が共同で精藍社を設立。各藍商の売り場を制定し自治的に蒅産業を統制する事が目的でした。翌年には名藍社と名前を改めました。そして、このような記述が残っています。

内地に於いても印度藍を模造混有する者が増加し、阿波藍商間にもかかる試みを為す者を生じたので阿波藍の声価を保つ為名藍社は純藍証なるものを発行した。

藍作経営に関する論文集:井口貞夫 著 平成5年2月1日

 国内での沈殿藍工業化の試みは、阿波藍と戦おうとしたのではなく、国産の藍産業を守ろうとした動きでしたが、その根拠を共有することが困難な状況だったことが推察されます。国産沈殿藍一派は阿波藍ギルドから完全に敵視されていた雰囲気が漂っている記述に見受けられます。
 しかし、国産沈殿藍一派への対立姿勢を取った阿波藍ギルド側も一枚岩とはいかなかったようです。

然しながら同社の統制は次第に乱れ、藍商を一体に結合する事難く、明治14年に至り藍商は藍商取締会社及び藍営業社を設立して対立抗争を演じた。然し明治26年には県の達に依り全藍商は一組合に加盟すべきことを強制せられ、藍商取締会所に加盟した。後明治30年4月重要輸出出品同業組合法の発布に依り、31年12月阿波藍製造販売同業組合に組織を変更した。

藍作経営に関する論文集:井口貞夫 著 平成5年2月1日

 インド藍の輸入、藍事業の自由化、国産沈殿藍の工業化への取り組み、と目まぐるしく新しい事案に揺さぶり続けられた阿波藍ギルドは、やはり目まぐるしく共闘体制を組み直しながら、時には身内同士で抗争を演じつつ徐々に弱体化していったようです。
 見たこともない国からの、考えたこともない規模の干渉を受けたこの時代。みんな必死に「守るべきもの」を見極めようとしていたのだと思います。国をあげて厳しい決断に迫られ続ける時代を、それぞれが必死に泳ぎ切ろうとしていたのだと思います。

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